久しぶりに広島に帰郷したが、関東圏と墓地の違いが目に入った。
因みにこれは広島といっても「安芸エリア」限定の話。
「福山市や庄原市も広島県」だが、広島市民が「広島県」を語るときは「安芸エリア」しか入ってない事が多い。
安倍晋三元総理大臣の銃撃事件を機に「世界平和統一家庭連合」=「旧統一教会と政治家」との関係が表面化。
その他「エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)」「幸福の科学」「創価学会」と政治や一般人の問題が度々話題にあがる。
「宗教」は「心のシャブ漬け戦略」だと思ってるが、ここで良し悪しは語らない。
広島市民は朝顔型の盆灯篭を墓に飾る習慣がある
広島県西部(安芸地方)では、お盆が近づくとスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどに綺麗な色の紙でできた灯籠が並ぶ。
この灯籠は「盆灯篭」と呼ばれており、お墓に飾る習慣がある。
この文化、全く知らなかったが「広島県(西部)」と「香川県(坂出市など)」の一部だけの文化らしい。
このため他県の人からすると「なに?あれ?」となる。
なお、初盆の年だけは、白一色の灯篭を飾るのが習わしとなっているらしい。
習わしといっても白燈籠が初盆のみに用いられるようになるのは戦後のことで、100年も経過していない。
なぜ盆灯篭を飾るのか?
これ……正確なことは何も分からなかった。
まじか……理由も知らないのに「皆が飾ってるから」という理由で飾っている事になる。
なにそれ……怖い。
唯一見つかったのは下記の3つだが、その先のソースが不明。
いずれも江戸時代後期より始まったらしい。
【説1】広島の殿様が白い灯籠を母親の墓に供えたのが始まり
もともとは、広島の殿様が亡くなった母親の墓に供えたのが始まりで、それが広がった。
殿様が供えたのが白い灯籠だったので、庶民が真似るにはおそれ多いとのことで、白は初盆の時のみという習慣ができた。【引用】盆灯篭作りの職人のお話
「白が初盆のみ」は戦後の習慣らしいから、これ事実と異なるよね?
それに「広島の殿様」って誰だよ?
14人しかいないんだよ?そこは明確にしろよ……
- 毛利 輝元
- 福島 正則
- 浅野 長晟、浅野 光晟、浅野 綱晟、浅野 綱長、浅野 吉長、浅野 宗恒、浅野 重晟、浅野 斉賢、浅野 斉粛、浅野 慶熾、浅野 長訓、浅野 長勲
【説2】紙屋の夫婦が娘の墓に燈籠(または花)を供えたのが始まり
「江戸時代、広島城下・紙屋町・八丁堀の紙屋の夫婦が、娘が亡くなったのを悲しんで墓に手作りの燈籠(または花)を供えた。」とする古い言い伝えがある
「手作りの灯籠」と「花」じゃ大きく違うんだけど??どっちよ??
紙屋だし、「手作りの灯籠」を流行させて儲けようとしたのかもしれない。
【説3】娘を亡くした父親が石灯籠が買えず紙で灯籠を供えたのが始まり
江戸時代の広島城下、娘を亡くした父親の話に由来するようです。
亡くなった娘のために石灯籠を立ててやりたいと思っても、そのお金がなく、それで竹をそいで紙を貼り、それを灯籠として供えたことにはじまり、今では安芸地方の夏の風物詩となっています【引用】浄土真宗本願寺派安芸教区教務所発行「仏事あれこれ小百科」
だったら石灯籠ある墓には不要じゃん……
今ではどんな墓でも備えられているよ。
よく分からない盆灯篭だけど、大正時代には市場の夜店の屋台でも盆灯篭を売られるようになった。
そして、戦時中は紙不足から一時中断したが戦後すぐに復活した。
1960年代からは花屋やスーパーマーケットでも売られるようになった。
広島市民の墓の正面には「倶会一処」と書かれている
広島市内の墓石正面には圧倒的に「倶会一処」という、阿弥陀経からの言葉が彫り込まれている。
裏側にまわると故人の名前や没年が刻まれている。
倶会一処とは、浄土教の往生の利益の一つ。
「阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる」という意味。
ようするに墓石正面の文字は宗派によって異なる。
宗派 | 刻む文字 |
---|---|
浄土宗 | 南無阿弥陀佛/俱会一処/○○家之墓 |
浄土真宗 | 南無阿弥陀佛/倶会一処(倶會一處) |
真言宗 | 南無大師遍照金剛/○○家先祖代々 |
天台宗 | 南無阿弥陀仏/南無釈迦牟尼佛/○○家之墓 |
日蓮宗 | 南無妙法蓮華経/妙法〇〇家先祖代々之墓 |
禅宗(曹洞宗・臨済宗など) | 南無釈迦牟尼仏/○○家先祖代々 |
神道 | ○○家之奥都(津)城/○○家先祖代々霊位/○○家之墓 |
キリスト教 | 十字架を刻み「○○家」/聖書の一節 |
最近では、「〇〇家之墓」や「南無阿弥陀仏」という文字が刻まれた墓も目立ってきている。
広島市民の宗派は「浄土真宗」ばかり
我が家の菩提寺は「浄土真宗本願寺派」。
まわりに「浄土真宗」しかいなかったので、学生時代は「世の中の8割は浄土真宗」だと思っていた。
実際に調べてみると確かに浄土真宗は一番多い宗派ではあるものの、全体の2割だ。
宗派 | 人数 |
---|---|
浄土真宗 | 695万人 |
浄土宗 | 602万人 |
真宗大谷派 | 553万人 |
高野山真言宗 | 549万人 |
日蓮宗 | 341万人 |
曹洞宗 | 158万人 |
真言宗智山派 | 154万人 |
真言宗豊山派 | 120万人 |
天台宗 | 61万人 |
真言宗醍醐派 | 56万人 |
現在、浄土真宗の多い県は、北陸三県、愛知県・岐阜県・滋賀県・奈良県・大阪府・和歌山県・兵庫県・広島県・山口県・島根県・福岡県・佐賀県・長崎県など。
なぜ広島は安芸門徒(浄土真宗者)が多いのか?
以前行われた中国新聞の調査によると広島県民の60% の人々が安芸門徒(浄土真宗を信仰している)とのこと。
中国新聞のソースは無いがNHK研究所調査の「現代の県民気質―全国県民意識調査」によると、35.5%と日本で4番目に浄土真宗の信仰者が多い事が分かる。
そんな状況なので、広島県西部の安芸地方は「真宗王国」と呼ばれており、安芸地方の門信徒を「安芸門徒」と呼んでいる。
じゃぁ、何でそんなに浄土真宗が多いの?
Amebaブログに「理由は『原爆』の影響が多々ある」と書かれていたが、そんな100年そこらの話じゃない。
古い墓石を見てみても浄土真宗ばかりだと分かるし適当な事を書くんじゃないよ!
他のAmebaブログには次のように書かれていた。
もともと広島県は真言宗が多い地で、お寺等もたくさんあったという。
しかし、今広島県特に市街地は殆ど浄土真宗のお寺である。その昔、戦国時代にこの地を治めていた大名(毛利・福島・浅野?)が本願寺(浄土真宗)に多額の戦費を借り入れをしておりその代償として、かなりのお寺を浄土真宗に改宗させたということを言われておられた。
その他「広島学 (新潮文庫)」に次のように書いてあるらしい。
広島人特有の気質として「過去」にこだわらないところがあり,それが「安芸門徒」と呼ばれる浄土真宗信者が多いことによると考察している。これは,浄土真宗の根本教義が「現世はどうあっても、弥陀の称号を唱え(南無阿弥陀仏)さえすればだれかれの区別なく極楽往生(=来世での成仏)がかなう」によるということである
まったくよく分からないけど、時代ごとの出来事をまとめると、拡大した背景は理解できる。
年代 | 出来事 |
---|---|
親鸞の高弟の一人・明光が、関東から多くの従者を引き連れて備後に移り住み、布教活動に着手する。 | |
1216年 | 沼隈半島の中央、山南(現在の福山市)の谷あいに創建したのが光照寺で、中国地方最古の浄土真宗寺院となる。 |
備後の南部からスタートした教線はどんどん拡大し、東は備中(現岡山県西部)、西は安芸にまで及んだ。 | |
1459年 | 安芸武田氏によって、武田山の麓(現広島県立祇園北高校付近)に建立された仏護寺が拠点となった。 |
1496年 | 仏護寺第二世円誓の時に浄土真宗に改宗して、安芸国の浄土真宗の中心となった。 |
室町時代から戦国時代 | さらに精力的な布教活動が展開され、出雲・石見(現島根県)、長門(現山口県)にまで広がっていく。 |
1541年 | 安芸武田氏は、毛利元就によって居城の佐東銀山城を落とされ滅亡する。城麓にあった仏護寺も兵火に焼かれて廃墟に。 |
1552年 | 仏護寺の三世超順は毛利元就と面会して協力を仰ぎ、仏護寺は再興された。元々信仰心に篤い元就は、仏護寺に手厚い保護を与えた。 |
1576年 | 大坂・石山本願寺における織田信長との長期戦に、信徒たちの寄進によって集められた兵糧を、毛利氏・村上水軍と手を組んで運び込んだ。安芸門徒の支援に感動した上方の信者の中には安芸に移り住んだものもいる。 |
毛利元就の支援もあり、江戸時代を通じて安芸国内で浄土真宗本願寺が信仰の中心となった。
因みに、江戸幕府は浄土真宗の勢力を恐れ、関東以東には浄土真宗のお寺を新たに認めなかったので関東や東北には浄土真宗の寺院が少ない。
おわりに
「広島」という地域は、浄土真宗本願寺派の門徒が多い(ほとんど)と言える地域。
古い墓石を見るのが好きで、色々な墓地を散策してたりするが、墓の文化も地域や時代によって異なっている。
そんな散策に連れて行くと子供は嫌がって逃げるけどねww