先祖の調査をはじめて10年経過。未だに分からないことだらけです。
そもそも農民の江戸時代以前の先祖調査は簡単ではありません。
我が家の最古の状況を物語る唯一の資料がこちら。
保田保兵衛よりの遺言によれば
麓屋保吉の父は、安芸国 下黒瀬の村役人(庄屋)を
勤めて居りし麓屋良左衛門の一子にて 少年の頃 母に
死別し断母の手に育てられしが不遇の身なりし故 一時広島
に出て 更に柞木上條に来り農業を営みんとの事なり
尚 保吉の妻は船越村の橋田屋より嫁したる者なり
橋田屋とは保兵衛幼少の頃迄交際し続け居りし由なり
麓屋良左衛門には小供なく家は絶へたる由なり
麓屋良左衛門は1700年頃から1760年頃の人物です。
賀茂郡の下黒瀬村から東に8km程度離れた場所に「保田村」と呼ばれる村が1600年頃まで存在していました。
室町時代頃は、そこの豪族だった・・・のでは?
という浅い推測で止まっていた家系図調査ですが、他にも推測が可能だとメールで情報を頂きました。
文献も少なく調査は難しいのですが、色々な可能性を継続調査しています。
過去帳の写しを依頼してみた
過去帳に先祖の情報がないかと、黒瀬町のお寺様にお手紙を送りました。
数日後に、お寺様より次のような返信を頂きました。
系図に記載された方々の御命日と法名を手がかりに調べさせて頂きましたが、当寺の過去帳には調査対象者の記載は全く見当たりません。
江戸時代に壇那寺が徳正寺ではなかった可能性が考えられます。
その後、電話でお礼をしましたが、
- 過去帳には屋号の記載はない
- 色々と遡ってみたが見つからない
との事です。
私が知りたい人物の「法名」「没年」は分かっていません。
その状態で1万人以上の過去帳から探すには、数週間以上かかる作業になるかと思っています。
本当に掲載されていないかは必ずしも定かではありませんが、これ以上の無理をお願いするのは厳しいかと思っています。
他にも近辺の浄土真宗本願寺派は多々あります。
西教寺 | 東広島市黒瀬町乃美尾2293 1563年 浄土真宗に改宗 1569年 道場を建立 |
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本興寺 | 東広島市黒瀬町乃美尾475 |
徳正寺 | 東広島市黒瀬町兼沢760 |
浄願寺 | 東広島市黒瀬町乃美尾35 |
清誓寺 | 東広島市黒瀬町国近314 1592~1596年 浄土真宗に改宗 |
源光寺 | 東広島市黒瀬町小多田保田618-2 |
西福寺 | 東広島市黒瀬町楢原68 1590年 浄土真宗に改宗 1738年~1945年までの13996人を過去帳に記録 |
慶雲寺 | 東広島市黒瀬町南方1725 |
金蔵寺 | 東広島市黒瀬町乃美尾字 福島氏時代に浄土真宗に改宗 |
先祖が武士の可能性を調査する
たとえば、仮に江戸時代に「庄屋」をしていたのが正しいのであれば、「武士から帰農」の可能性もあります。
要するに安芸広島藩領であれば、様々な君主の家臣だった可能性があります。
- 大友氏の元家臣、毛利氏に降参し帰農
- 毛利氏、安芸吉川氏の元家臣、上級家臣の元陪臣
- 安芸武田氏の元家臣で、浅野氏の移封で帰農
- 福島氏に附随して来広したが、改易に伴い帰農
安芸の武士に関する情報は次を文献を見ればよさそうですが、一筋縄ではいかない文字で書かれています。
陰徳記 | 万治3年(1660年)ごろの成立とみられる軍記物語。大内、尼子、毛利、大友氏ら群雄の興亡の歴史 |
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陰徳太平記 | 永正8年(1507年)頃から慶長3年(1598年)頃までの軍記物語 |
そして、ある程度の豪族でない限り掲載されてる可能性は低いようです。
帰農した可能性がある一族
現時点で、広島藩士で保田家に繋がる手掛りとなりそうな感じのものは見つかっていません。
そんな折り、
房田(ぼうだ)→保田(ぼうだ)→保田(やすだ)
という推測ができるのでは?と、同じく黒瀬村の先祖調査している方から連絡貰いました。
房田という、広島県西部である安芸の豪族が昔はいました。
具体的には、房田万五郎という豪将が、天文年中(1532~1554)に海老根城(市飯田)にが入城していたと文献には記載されています。
養子の房田杢之進宗友は大内氏に仕えていましたが、1561年に岩山城が毛利氏に攻略された際に降参し、海老根城を焼き払い下屋敷(上保田と市飯田の境)に移り住んでいたとの事です。
そこから4、5代後の江戸時代中期・・・
我々の先祖が、もともとは房田氏であると仮定すれば、「麓屋良左衛門(1690年~1760年頃)が安芸国 下黒瀬で村役人(庄屋)」とある遺言状とも・・・合致するようにもみえます。
例えば、江戸時代後半に「房田要兵衛」という者が、庄屋同格社倉頭役を勤めていました。
とすると、黒瀬町に麓屋良左衛門氏の兄弟、それ以前に分かれた系譜がいるかもしれません。
とにかく「陰徳太平記」「陰徳記」「安西軍策」においても、「房田」と「保田/安田」の両面で確認するのがよさそうです。
ただし、名字はいつから名乗ったか?
昔は別の苗字を名乗っていたが、保田村にいた伝承をもとに、麓屋初代の方が明治時代になり保田姓を名乗り始めた。
この場合は前述の仮定は白紙になります。
苗字の地そのものの苗字を今も名乗っている家は、明治から名乗っている場合が多いそうです。
また、古い苗字の場合には、維新時に、その地名の地区の少し離れた場所(半径20~30km圏内)に住んでおられたと言う事例が多いそうです。
- 明治5年には名字を名乗っている
- 本家と分家で同じ名字、家紋である
- 江戸時代の文献には名字記載はない
- 「保」が通名になっている
- 保田村、仁保島、仁保姫、上保田村など、保に因む項目が多くある
悩みどころは多々あるので、判断できませぬ。
その他の調査方法
手当たり次第に文献を探して読むしかないです。
たとえば、広島大学図書館所蔵の検地帳。
まず「中国五県土地・租税資料文庫目録」から関係ありそうなものを探す必要があります。
具体的には国会図書館のデジタル図書から広島県域の所蔵内容を確認する必要があります。
その後、広島大学図書館で身分証明をして図書利用カードを作成した上で、閲覧の申請を行います。
夏休みなど学生さんが少ない時期を狙えば、撮影用の小さな部屋もご提供して頂けるそうです。