仁保島の14艘の牡蠣仲間の人物一覧は間違い(1/2)

直系の先祖「保田」姓の調査をはじめて約10年が経過しました。

数冊の文献に明治時代前後の先祖の名前を見つける事はできましたが、江戸時代に関しては殆ど分かりません。

唯一「広島太田川デルタの漁業史 第1輯(著者・川上雅之)」、1743年の名前を見つけるのみです。

江戸中期の先祖の暮らしぶりを知れたので十分すぎるほどの情報ですが、この真偽が怪しくなってきました・・・。

なお、個人的な話なので今回も面白くないです。あしからず。

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文献に書かれている内容(抜粋)

広島太田川デルタの漁業史 第1輯(川上雅之) p.129より

藩役人へ願出たもので、1850年頃までの間に、古文書に発見するものを掲げて当時の情況を推測することにしたい。

後に次のような記載があります。

寛保3年(1743年)仁保島かき船14艘の営業者

向洋9般
      原 敬三
      丹羽格太郎 (2般)
      岡田藤右衛門(2般)
      岡田孫三郎
      大下雄三
      山代吉右衛門
      土手秀助
渕崎本浦5般
      金井半三郎  吉田屋
      奥村忠次郎  奥 屋
      大浜釆造
      保田保兵衛 (おうがみ屋)
      和田辰次郎

また、次のような記載もあります(後述するが、これだけ証拠文献あり)。

嘉永6年(1853年)11月、大阪における仁保村のかき船14株主は次の通り

本 浦
      吉田屋半三郎(金井家)
      奥屋太右衛門(奥村家)
      鍵屋元蔵
      古城屋利右衛門
渕 崎
      大嶋屋平兵衛
      福島屋為吉
      築島屋惣助
      奥屋万太郎
      死跡万次郎
      中嶋屋甚兵衛
      大谷屋治兵衛
      森本屋万吉
      袴屋直蔵
      吉和屋平四郎

最後に、次のような記載があります。

明治14年(1881年)頃仁保島のかき船営業者中判明分

本 浦
      金井半右衛門(吉田屋)
      奥村忠次郎 (奥田屋)
大 町
      大元太郎(後北海道移住)
      和田辰次郎
渕 崎
      保田保兵衛(大上屋)
      池田治右衛門(大谷屋)
      大浜釆造(吉和屋)
向 洋
      原 敬三(元船大工)(かき安)
      丹羽格太郎 2ヶ所 (かき格)
      岡田早一(かき国)
      岡田信一(かき釆)
      大下雄三(かき理)
      山代吉右衛門 2ヶ所 (かき慶)
      土手秀助

(注)向洋が9艘となっている。これは渕崎本浦の権利譲渡から変化したものと考えられる。

何が怪しいのか?

嘉永6年(1853年)11月の名前は、大阪北堀江宮川町の「銀主 大和屋 安次郎」に当てた下記の文献からの引用だと記載があります。

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ですが、「寛保3年(1743年)仁保島かき船14艘の営業者」の名前が載っている文献の記載がありません。

現時点でも、幾つかの誤りが見つかってます。

  • 吉和屋平四郎は、明治時代に「海苔業」に移行した際に「大浜家」に株を売却した(大浜釆造は含まれない)
  • 保田家の当時の先祖は保兵衛ではない(保田保兵衛は含まれない)
  • 江戸時代に農民の姓は記載されない(文献を引用していない)
  • 明治14年時に向洋は9艘となった。これは渕崎本浦の権利譲渡から変化した(当初は向洋は9艘も入ってない)

14艘の営業者の名前は文献を参考にしたのではなく、誤った伝承をベースに記載したものだと思われます。

仁保島郷土誌会の吉岡氏、広島県立文書館の西村氏にも聞きましたが、同じ疑問を示しました。

真偽を調べてみたが・・

多くの文献を調査しました。

  • 廣島牡蠣養殖場ニ関スル取調書. 納税関係抜粋
  • 廣島牡蠣養殖場ニ関スル取調書. 抜粋
  • 日本古代漁業経済史
  • 草津村蠣仲間. (一) ~ (五) / 新見吉治著
  • 廣島養蠣ノ起元ニツイテ / 新見吉治著
  • 草津・小川家文書

1743年における草津の21艘は「小川家文書」の中に記載されています。

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また「草津村蠣仲間/新見吉治著 明治40(1907)発行」の書物に、文久3年(1863年)時の先祖の名前は見つかってます。

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壹盃五合 治右衛門
壹盃四合 (大谷屋)治兵衛
四盃三合 (保田)保兵衛但し二口
壹盃 大工屋 但し小舟

ですが、1743年の仁保島の14艘に関しては見つかりません。

いっその事、筆者に電話すれば?

3年前に広島県立文書館に著者の川上雅之氏が訪ねて来たとの事で、西村氏から川上氏の住所を教えてもらった。

が「送り先不明」と封書が戻ってきました。

さらに電話をしてみても、同姓別人のお宅のようです・・・・。

そもそも、書籍に記載されている川上氏の住所と全く別でした。

書籍に記載されている住所には、タウンページから2000年までは配偶者の方が住んでい事が分かりました。

電話番号は通じているのか、電話してみると・・・

「この電話は現在使われておりません・・・・」

と悲しい応答・・・。

追記(2017/3/26)

「灘の歴史(向洋・堀越・青崎、広島市青崎学区郷土史研究会 編)」の中に次のように記載されていました。

※ 川上雅之氏が本書に協力しているので「広島太田川デルタ漁業史」がベースだと思われます

寛保3年(1743)仁保島から大坂の堀内筋にかき船営業14艘の内に、向洋からの営業者は次のとおりであった。

原 敬三
   かき安 永代橋後京町橋へ移動
丹羽格太郎 (2般)
   かき格 堀江橋
   かき格 長堀橋
岡田藤右衛門   かき国(岡田早一) 天神橋
岡田孫三郎
   かき来(岡田早一) 雑魚場橋
大下(おおしも)雄三
   かき理 大江橋
   → 大下嘉市、その子雄三は松田重次郎氏向洋資金の援助者の一人
山代吉右衛門
   かき慶(後二艘営業) 本町橋
土手秀助
   長堀の「かき格」を継ぎ営業した
若山若一
   かき船は平野橋詰にあった

向洋が9艘持っていたことは変わらないようです。

ここで注目すべきは営業場所の情報が記載されていることで、営業場所に関しては別の資料から既に分かっています(近世から近代における広島カキ船営業の地域的展開 片上広子 著)。

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例えば「本町橋」での営業は明治14年(1881年)頃となっており、「かき慶」は1743年時点で営業していません。

その他、「大江橋」を除いて全て1881年頃から存在した営業場所なので、

1743年時点では仁保の牡蠣株仲間に、向洋の人は存在しなかった

と断言してよいでしょう。

次のActionとして考えられること

  • 【済】広島郷土資料館に聞いてみる
  • 【済】西南地域史研究 2 論説 広島牡蠣仲間と大坂市場/土井作治 / p140~160
  • 【済】旧幕時代に於ける芸湾養蛎業の発展過程 = 日本漁業経済史 中巻二 / 羽原 又吉 著 / S12.3  社会経済史学
  • 古組・新組蠣船大坂商ひ場所并人名 覚 (明治 2.12)小川家文書
  • 草津郷土会に聞いてみる
  • 太田川デルタの漁業史に書かれている参考文献、協力者を全てあたってみる
  • 【済】向洋の牡蠣の歴史を調査する(灘の歴史 : 向洋・堀越・青崎 広島市青崎学区郷土史研究会 編)
  • 大阪の牡蠣船に関する書物を探す

「かき養殖」の歴史に関わる大切な出来事だと思うので、いつの日か誰かが見つけてくれると思ってます。

仁保島のかき仲間の14艘の名前(1850年以前)をご存知の方はご一報を下さい。

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