年始に初詣に行こうと家を出たが、鍵を忘れて自転車にも乗れず・・家にも戻れず・・・数時間。
2018年は不運の幕開けだ・・・。
仁保島のかき株仲間
仁保島のかき株仲間について、調べても分からない。
「仁保島の14艘の牡蠣仲間の人物一覧は間違い」の日記の続きです。
- 大阪堀川での営業場所
- 14艘であったこと
- 1743年に発足したこと
を除いて、十分な情報は残っていない。
川上雅之氏の考察によると、仁保では、あえて文書化しないことで傍若無人にカキ業を行っていた・・とのことなので。
その中で、間違いだと確信している部分は次(広島太田川デルタの漁業史 第1輯(川上雅之) p.129)。
推測の域を出ないことは承知の上だが、現存する当時の記録を整理することで考察してみる。
利用する文献は次の通り。
- 灘の歴史(広島市青崎学区郷土史研究会)
- 太田川デルタの漁業史(川上雅之)
- 小川家文書(小川家)
- 近世から近代における広島カキ船営業の地域的展開 – 歴史地理学会(片上広子)
上記文献から、記載元が明確なカキ船の大阪での営業場所と人名を抽出してみた。
場所 | 寛保3年(1743年) | 嘉永2年 (1849年) | 嘉永6年(1853年)11月 | 文久3年(1863年) | 明治2年(1869年) 休商6 | 明治14年(1881年) | 明治14年(1881年) |
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本 浦 | 吉田屋半三郎(金井家) | 吉田屋半三郎(金井家) | 金井半右衛門(商会橋) | (本浦) | 金井半右衛門(吉田屋) | ||
本 浦 | (本浦) | 奥屋太右衛門(奥村家) | (本浦) | 奥村忠次郎 (奥田屋) | |||
本 浦 | (本浦) | 鍵屋 新兵衛 | 鍵屋元蔵 | (本浦) | |||
本 浦 | (本浦) | 古城屋利右衛門 | (本浦) | ||||
本 浦 | (奥屋吉右衛門(代忠右衛門)(奥村家)) | ||||||
渕 崎 | (渕崎) | 大島屋 新九郎 | 大嶋屋平兵衛 | ||||
渕 崎 | (渕崎) | 福島屋為吉 | |||||
渕 崎 | (渕崎) | 築島屋惣助 | |||||
渕 崎 | (渕崎) | 奥屋万太郎(死跡万次郎) | |||||
渕 崎 | (渕崎) | 死跡万次郎 | |||||
渕 崎 | (渕崎) | 中嶋屋甚兵衛 | (渕崎) | ||||
渕 崎 | (渕崎) | 大谷屋治兵衛(池田家) | (大谷屋)治兵衛 | 池田理右衛門(大国橋) | (渕崎) | 池田治右衛門(大谷屋) | |
渕 崎 | (渕崎) | 森本屋万吉 | 万吉(西国橋) | (渕崎) | |||
渕 崎 | (渕崎) | 袴屋直蔵 | (渕崎) | ||||
渕 崎 | 吉和屋平四郎 | 吉和屋平四郎 | 大浜屋平四郎(仲橋) | (渕崎) | 大浜釆造(吉和屋) | ||
渕 崎 | 池田次平(備後川岸浜) | (渕崎) | |||||
? | たに右衛門(瓦屋橋) | ||||||
? | 増五郎(御池橋) | ||||||
? | 半次郎(板屋橋) | ||||||
? | 治右衛門 | ||||||
渕 崎 | (保田)保兵衛 | (渕崎) | 保田保兵衛(大上屋) | ||||
大 町 | 大元太郎(後北海道移住) | ||||||
大 町 | 和田辰次郎 | ||||||
向 洋 | (向洋) | 原 敬三(元船大工)(かき安) | |||||
向 洋 | (向洋) | 丹羽格太郎 2ヶ所 (かき格) | |||||
向 洋 | (向洋) | 岡田早一(かき国) | |||||
向 洋 | 岡田信一(かき釆) | ||||||
向 洋 | 大下雄三(かき理) | ||||||
向 洋 | 山代吉右衛門 2ヶ所 (かき慶) | ||||||
向 洋 | 土手秀助 |
参考文献は、小川家文書もある。
- 草津・小川家文書(1819)
- P01 45 A10 〔江波西瀉の仁保島・江波島相論一件船 手方達ニ付江波島請書〕覚 宝暦 5. 7
- P01 45 A4 取交証文写(2冊)※仁保島渕崎浦藻崎蠣活場の件草津村 蠣屋中と差縺に付 文政 8.11
- P01 45 A5 乍恐奉願上口上之覚〔并免許付紙〕※大坂蠣売商事取続願書 明治 2.12 (草津村古組 4名・仁保島新組 3名・船年寄2名→大坂府裁判所)
- P01 45 A10 川中拝借場所江舟繋抗建置度儀願(2冊) 明治 6. 1 (草津村蠣商内舟持惣代2名・仁保島同2名他)
- P01 45 A9 〔仁保島藻崎草津生蠣ニ付〕記 明治 7.12.15
- P01 45 A5 〔安芸郡仁保島藻崎活場譲渡〕定約書 明治14. 3.15
- P01 45 A5 〔仁保島藻崎生場譲渡〕定約書 明治14. 3.16
- P01 45 A10 〔仁保島淵崎浦字藻崎蠣活場海面拝借出願之義ニ付歎願并願書御取消願〕
- P01 45 A8 貝類養育営業仕馴無代譲受証 明治14. 6.19(仁保島渕崎浦譲受人池田治平他→蠣営業惣代高木三右衛門)
たとえば、上記の文献には次のように書かれている。
安芸郡仁保島
当分庄屋 原田十兵衛
庄屋 量平
同島の内淵崎浦
組頭 半助
長百姓総代 新八
同 清七
蛎師範代 平四郎(大浜)
同 七蔵(野島)
同 次右衛門(池田)
以前、確認したとおり、嘉永6年(1853年)11月の人物の一覧は存在する。
株仲間結成後、100年経過しているが、江戸時代のリストであることは価値がある。
これらの情報に対して、カキ船の営業場所と人名をマッピングしたのが次図。
カキ船の営業場所が基本的には屋号で受け継がれていると仮定すると、向洋の牡蠣株仲間に入ったのは、明治以降だと推測できる。
半次郎、たに右衛門、増五郎の名字・屋号は分からないが、1743年頃から存在するカキ船場所なので、本浦・渕崎の人物であり、株仲間結成時のメンバーの子孫だと思われる。
1743年の株仲間結成時のメンバーで確定している者は、今のところ5名。
本浦
- 吉田屋半三郎(金井家)
渕崎
- 大谷屋(池田家)
- 吉和屋平四郎()
- 森本屋()
?
- 半次郎
- たに右衛門
- 増五郎
向洋の大下氏だけは1743年からの営業所を使っているので別途考察は必要となる。
が、その他の1743年に存在した7つの営業所は消えてしまっている。
仁保島カキ船の場合は,江戸期とは違った新規営業場所に移っている。
つまり仁保島新株は,株の上での特権が少ない反面,生産・販売とも規制が緩やかで新たな販路を求めた,いわば「自由開拓型」と言えよう。
片上広子
と書いてあるが、牡蠣株を売却し、新規株仲間が新しい販売所を切り開いた・・・だけな気がしています。が、憶測に過ぎない。
「江戸時代 人づくり風土記 34(ふるさとの人と知恵 広島)」著者 牧野昇・会田雄次・大石慎三郎監修に次のように書かれている。
現在、西区の草津地区に寛保3年の「牡蠣船人別帳」といわれる史料が残されています。これには、牡蠣船の所有者の名前と船をどの位置に留めるかが詳しく書かれており、それぞれが印を押しています。
第2章 生業の振興と継承の中で
広島湾の牡蠣養殖ー広島の味覚を代表する名産品 広島
菅信博 著
広島民俗学会会員、倉橋町史を書かれた方・・だと思われる。
まずは、「牡蠣船人別帳」を入手だな。草津牡蠣株仲間の事しか書かれてない気はするけれど。
今のところ、結論
今回、大阪の牡蠣の営業所と屋号・かき船名から人名マッピングすることで、創立時の牡蠣株仲間を明らかにしようと試みた。
その結果、明らかになったことは次の通り。
- 株仲間制度が消滅した明治4~5年(1870年)頃から向洋の牡蠣船が大坂に参入した
- 1743年には、本浦・渕崎で牡蠣株仲間を作った
- 我々の先祖は1743年の株仲間結成時のメンバーには含まれていない
ねほりはほりの継続調査により明らかにしてみる。