株仲間
1841年(天保11年)、老中の水野忠邦が政治を行う。
この政治を「天保の改革」という。
忠邦は、まず物価の上昇は株仲間が商品の流通を独占しているためであると考え、
株仲間を解散
させる。
株仲間の解散(学習マンガ)
語呂合わせは「人はよい (1841) よい天保の改革」。
さて所は変わって「広島藩」。
広島といえば「牡蠣」。
広島市南区の比治山南麓にある縄文中期貝塚から出土した貝の組成は、
- ハマグリ70%
- カキ10%
- アサリ5%
- その他15%
となっており、その頃から、日本人は好んでカキを食べていた。
さて江戸時代になると「草津村」と「仁保島」が「カキ株仲間」の設立により大坂でのカキ輸送販売を独占し、さらにはカキ舟を仕立てて、大坂町人へカキ料理を提供した。
販売量も利益も莫大であり「大坂の食い倒れ」を作ることでカキ販売業者は大いに儲かった。
なお、「草津村」と「仁保島」の「カキ株仲間」の設立時期は異なる。
1700年(元禄13年)・・・・草津村の河面仁右衛門と弟(医師の西道朴)が三次藩に働きかけ、牡蠣船18隻に限り大坂でカキを独占販売する権利を得た。この組織が「草津村カキ株仲間」
1743年(寛保3年)・・・・牡蠣船の乗員数は3名までと制限され、草津村は21隻、仁保島村は14隻と規制。この組織が「仁保島カキ株仲間」
羽原又吉:舊幕時代に於ける芸湾養蠣業の発展過程,(「社会経済史学」第 6 巻第 11 号別刷)
背景は「仁保島の14隻」のメンバー探しから始まっているのだが、今回、草津村の新事実が見つかった。
1743年(寛保3年)の仁保島の14隻は一体誰なのか?
前述のとおり仁保島のカキ仲間成立は、草津村よりもはるかに後年の寛保 3年(1743)である。
理由に関して「近世から近代における広島カキ船営業の地域的展開(片上広子)」という論文に次のような記載がある。
この新株の成立には相当こみいった事情があったことは注意すべきことで,以下のとおりである。
草津村は延宝 6年(1678)から享保 5年(1720)まで三次藩(支藩)の領域であった。仁保島村は本藩支配であった関係から,また草津村でカキが不足したときは仁保島のカキを買い入れてカキ船を営業していたこともあり,草津村は仁保島村に対して特権を強く主張できなかった。草津村は,仁保島村が草津カキ船の名目でカキ船営業を行っていたことを黙認していた。かくして,仁保島村は草津村の特権を背景にしながら,自分たちがまだカキ株制を形成していないのを利用しつつ,無制限に大阪へ販出した。寛保年間(1741~44) になると仁保島村カキ船は,初め 人乗り7隻が, 4人乗り 14隻となり,次第に草津村カキ株仲間の営業を脅かすようになった。遂には草津村から藩に仁保島のカキ船増加の差留めが要望された。
結局,寛保 3年 (1743) 1隻(1株)につき 3人乗りのカキ船を,草津村は21隻,仁保島村は14隻とし,両村とも株仲間制による共通の取り決めに従うことで落着
引用が長いけど図にすると一コマで説明できる。
自由奔放な仁保島村住民は、寛保 3年 (1743) に定められた「カキ株仲間」が誰か?も残してない。
唯一のソースが「広島太田川デルタの漁業史(川上雅之)」だけど、これが怪しさ満点。
寛保3年(1743年)仁保島かき船14艘の営業者
向洋9般
原 敬三
丹羽格太郎 (2般)
岡田藤右衛門(2般)
岡田孫三郎
大下雄三
山代吉右衛門
土手秀助
渕崎本浦5般
金井半三郎 吉田屋
奥村忠次郎 奥 屋
大浜釆造
保田保兵衛 (おうがみ屋)
和田辰次郎
【怪しい点】
- 吉和屋平四郎は、明治時代に「大浜家」に株を売却した(大浜釆造は含まれない)
- 保田家の当時の先祖は保兵衛ではない(保田保兵衛は含まれない)
- 江戸時代に農民の姓は記載できない(文献を引用していない)
- 渕崎本浦の権利譲渡により明治14年時に向洋は9艘となる(当初は向洋は9艘でない)
そもそも資料協力に親族も入ってるので恣意的感がハンパないよね。
というブログを7年前、5年前に書いたが進展がなく放置していた。
偶然にもサイトで知り合ったアマチュア郷土史家の方より学芸員を紹介して頂いたので、重い腰を上げて問い合わせしてみた。
広島城の学芸員 本田美和子氏より
© ブラタモリ/NHK総合テレビ
要点のみ載せておく。
川上氏の寛保3年(1743年)の「牡蠣株仲間一覧」については、
- 屋号ではなくすべて苗字表記であること
- とても近代的な名前であること
江戸時代のものとしてはかなり怪しいと思わざる得ない。
もしくは、根拠となる資料がない郷土史家の情報をそのまま本に掲載されてしまった可能性が高い。
株仲間に関しては藩および当事者側に何らかの行政文書があったはずなので、当事者側資料については、県文書館に入ってくる可能性はある。
ほぼ私と同じ認識だった。
加えて「草津の小川家文書の整理が進んでるはずなので、広島県立文書館に連絡してみては?」と言われた。
広島県立文書館の西村晃氏より
文書館所蔵の草津の小川家文書に関して返答を頂いた。
要点のみ載せておく。
文書館へ寄託された小川家文書の簡単な整理は終わっている。
寄託契約が完了していないので、目録などは公開できてない。
江戸時代の文書はわずかで、その中に牡蠣養殖の関係の資料はない。
小川家からすべての古文書が文書館に寄託されているわけではないので、同家にまだ牡蠣養殖関係の資料が残されている可能性はある。
牡蠣に関する有益な更新は無いようだ。
広島県立文書館文書調査員・菅信博氏より
今回の本命はこれ。
1991年発売の「江戸時代 人づくり風土記 34(ふるさとの人と知恵 広島)」著者 牧野昇・会田雄次・大石慎三郎監修に次のように書かれていた。
現在、西区の草津地区に寛保3年の「牡蠣船人別帳」といわれる史料が残されています。これには、牡蠣船の所有者の名前と船をどの位置に留めるかが詳しく書かれており、それぞれが印を押しています。
第2章 生業の振興と継承の中で
広島湾の牡蠣養殖ー広島の味覚を代表する名産品 広島
菅信博 著
ドンピシャリ!
探している「寛保3年(1743年)」に書かれた「牡蠣船」の「人別帳」なら調べなきゃ!
広島城の学芸員・本田氏より「菅信博氏は元々県の教員で、現在は「広島民俗学会」の会員・府中町文化財審議委員・広島県立文書館文書調査員」との情報を得た。
こちらも広島県立文書館に問い合わせしたところ、直接 菅氏に尋ねてくれた。
それ、一番確実ね!!
次が返答だった。
『人づくり風土記34 広島県』は1991年発行で,細かなことは記憶にないが,寛保3年「牡蠣船人別帳」の原本を見てはいない。
当時は草津と同地区にある井口高等学校に勤務していたこともあり,地元の刊行物に書かれていた記述を引用したのではないかと思うが,それが何なのか全く記憶がない。
原本を見ずに文書名を出したことは,今となっては恥ずかしく感じる。
なるほど全く記憶にない……と。
まじかよ……
さらに本田氏が寛保3年「牡蠣船人別帳」が掲載された文献がないか文書館内で調べてくれたそうですが、分からなかった……とのこと。
その他の文書に関して
本田氏は他にも様々な文献を確認してくれたようだ。
ありがたい限り。
「広島県史」近世1,644頁
寛保3年12月,安芸郡仁保村の牡蠣屋を中心に新株組14組の結成が認められ…
と記述されているが、これも出典がない。
「広島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書」(編者・発行年ともに不明)
仁保島業者の名前が出ている寛保3年の資料「広島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書」があったそうだ。
カキ船増加につき差留願&差留命令書
カキ船14艘 但し1艘に3人乗り
との記載がある。
これは「太田川デルタの漁業史 第二輯(川上雅之)」の巻末(p.206)にも名前が掲載されている。
1名の屋号・名前が文献によって違うよ……正解はどっちなの?
松本屋勘右衛門(広島牡蠣養殖場ニ関スル成跡書)/小島屋六兵衛(太田川デルタの漁業史)
原本は下記の「小川家文書」だと思われるが22名なんだよね。
と思ってたら、西村氏からも同様なコメントが。
当館で収蔵する小川家文書「養蠣由来書」(明治31)の複製と,お送りいただいた「太田川デルタの漁業史 第二輯(川上雅之)」を比較したところ,後者には次の3点について誤りがあるようです。
(1)山口屋喜兵衛→山口屋嘉兵衛
(2)幡摩屋小次郎→播磨屋小次郎
(3)松本屋勘右衛門を追加。
したがって,草津のかき仲間株主名は21名ではなく,22名です。
衝撃な事実じゃないの?これ。
今回分かった草津村の22名のメンバーリストは次のとおり。
寛保3年亥4月24日
- 松屋六右衛門
- 万屋八右衛門
- 胡屋孫七
- なべ屋勘兵衛
- 山口屋久右衛門
- 山口屋七右衛門
- 山口屋嘉兵衛(太田川デルタの漁業史は間違っている)
- 小西屋五郎兵衛
- 車屋徳兵衛
- 松本屋八郎左衛門
- 松本屋勘右衛門(太田川デルタの漁業史は抜けている)
- 小島屋六兵衛
- 三嶋屋次右衛門
- 宮嶋屋長左衛門
- 播广屋小次郎(播磨屋小次郎)(太田川デルタの漁業史は間違っている)
- 船倉屋市郎右衛門
- 木屋清七
- 船倉屋与兵衛
- 阿賀屋八右衛門
- 胡屋七兵衛
- 山口屋孫八
- 大野屋長兵衛
おわりに
仁保島(新株)の14名の名前を調査していたところ、
草津村のメンバーが21名ではなく22名だった
という新事実が分かった。
今までの書物や研究論文に書かれた内容は間違えだったんだね。ほとんどの人は眼中にない話題だけどさ。
郷土調査なんて砂漠から砂金を見つける作業だと思ってる。
このような小さな発見が新しい発見に繋がる……はず。
何も(知ら)ないから何か見つかる。
僕らは300年前の江戸時代の事ですら、まだまだ分かってない。