海のミルクとも言われるほど、栄養価が高いことで人気の牡蠣。
今回は、前回の記事の続きです。
カキ養殖の歴史に関して、今までもこのサイトで紹介してきました。
- 仁保島の14艘の牡蠣仲間の人物一覧は間違い(2/2)
- 仁保島の14艘の牡蠣仲間の人物一覧は間違い(1/2)
- アメリカのカキ「クマモト」は小さすぎて満足できない
- 【カキ養殖の歴史】広島県がカキ養殖発祥の地・・地区はどこ?(1/2)
- 仁保島村の広島カキ養殖と先祖の歴史
世の中には、牡蠣のサイトは数知れず。ただし、養殖の起源を独自で掘り下げた人はいない。
Google様はアフィリエイト的なサイトが好きらしく更新頻度や大衆的な記事サイトが上位に来る。
ジャンルによっては、研究結果見たかったりするけどね。
前回までのあらすじ
「カキ養殖発祥の地は広島(廣島)」が通説だ。
理由は、大正13年に草津村役場が発行した「草津案内」に、次のように記されているから。
天文年間(1532年~1555年:室町時代の後期)安芸国(広島県)において養殖の法を発明せり
世間一般では、「室町時代の後期」が最古の牡蠣養殖と考えられている。
さて、ホントに最古なのか?
なぜなら、この「草津案内」は大正時代の草津町地図と、草津町の商店・飲食店が並んだいわばパンフレット。
参考文献は書かれてないし、文面も簡素過ぎて養殖方法が分からない。
で、独自で調査中。
何を調査して何が分かったの?
現在分かっている範囲の記事が前回のまとめ「【カキ養殖の歴史】広島県がカキ養殖発祥の地・・地区はどこ?(1/2)」より、発祥候補は数か所に絞られている。
年代 | 場所 | 内容 | 参考文献 |
---|---|---|---|
1532年~1555年(天文年間) | 安芸国(広島) | 安芸国(広島)において養殖の法を発明せり | 「草津案内」大正13年発行 |
1619年(元和5年) | 広島(仁保) | 浅野藩主「浅野長晟」が広島に転封されるや、間もなく紀州かきを広島の干潟に移入 ※ 広島の干潟=仁保と書かれている(太田川デルタの漁業史) |
自得公済美録 |
1624年~1644年(寛永年間) | 仁保 | 仁保島渕崎の吉和屋平四郎、岩石を沈めて(石蒔)養殖を始める。のち竹木を立てて、さらに竹に特化して(ひび建)養殖を続ける (※仁保村志が編纂された昭和4年頃、吉和屋は、まだ事業を行っていた為に詳細に記されている) |
1929年 仁保村志 |
1624年~1650年(戦国末江戸初期) | 矢野 | 矢野における養殖の初めは明らかでないが、山岡某と云う人が蛎の密着したヤマツゲの木を見て始めた (「国郡志御編集ニ付下調べ書出帳」に記載) |
1958年 矢野町史 |
場所としては、仁保、矢野、草津あたりが牡蠣養殖の発祥の地として有力視されている。
1958年「矢野町史」を国会図書館から取り寄せたところ、確かにp.207に書かれていた。
山岡某と云う人が蛎の密着したヤマツゲの木を見て始めた
この一文は「国郡志御編集ニ付下調べ書出帳」が参考文献と書かれている。
「国郡志御編集ニ付下調べ書出帳」は、広島の歴史書「芸藩通志(文政2年(1819年))」の編纂の過程で諸郡村の調査資料を提出させたもの。
さらに見つけた古い発祥について書かれた文面
今回の本題はこっち。
大正11-14年(1922年~1925年)に書かれた「広島市史. 第4巻」に牡蠣養殖の発祥情報が書かれているのを発見した。
※実は随分前から知ってたが忘れてた
江波沖一帯の地域最も其養殖に適し、発育肥大にして肉締り、貯蔵久しきに耐ゆると、其味又佳良なるを其特長となす、何れの年代より養殖業の行はれたるやは詳にすること能はざる(あたわざる)も、傅説(ふえつ)に依れば、長治2年(今より八百餘(余)年前)(1105年)凶作に當(あた)り、五穀穰(みの)らず、島民は貝を採取して飢を凌ぎし爲(た)め、當時(とうじ)同島付近の貝類はほとんど絶滅に歸(き)せんとり、島民西淸八なるもの之れを憂ひ、麥(麦)三石を貧民に施し、他國(国)より種貝を求め来りて之れを海中に散布し、以て其蕃殖(はんしょく)を圖り(はかり)たりと云えば、其養殖起源の古きことを知るべし
「いつから養殖が始められたか分からない」としながらも記載されている情報は今までより古く、人物名まで書かれている。
実は、同じ文面が「中丸可陽」氏の「我が里海、広島湾の漁業の歴史」にも書かれている。
こちらを現代訳として載せておく。
天平年間に奈良朝廷の役人らしい貞親君が、当時、名原島と呼ばれていた江波島を訪れた際、住民からかきを贈られたという伝説がある。
長治 2 年(1105)稀に見る凶作で、当時、地切島と呼ばれていた江波島の住民はききんのために近くの貝を食べ尽くした。 ここで西 清八なる人物が窮民に麦三石を与えるとともに、他国より種貝を求めて、増殖を計ったという伝説もある。
中丸可陽、2010年08月05日(前広島漁業協同組合組合長 濱本隆之氏に資料提供を受け執筆)
しれっと、聖武天皇の天平年間(729年―749年)に島民が「かきを贈った」という文面もある(広島大学教授 井上洋一郎氏が昭和42年頃の広島経済ゼミナー紙に掲載の記事との事)。
※ 川上雅之氏は「天長元-5年(825年-830年)頃、貞親(じょうかん)の君が、当時 奈原島(今の江田島)に来られた時、島の者が、牡蠣を贈った」と考察している(「広島太田川デルタの漁業史」 江波に伝わるかきの伝説について より)。
後半部分は「広島市史」とほぼ一緒だが、「江波島」の話が書き加えられ、傅説のくだりは「伝説」となっている(「広島太田川デルタの漁業史」にも記載あり)。
この方の参考文献は、次のとおり。
- 広島太田川デルタの漁業史(川上 雅之 著)
- 常設展示「広島カキ養殖」(広島市郷土資料館)
- 年表「太田川と広島湾の漁業のあゆみ」(広島市水産振興センター)
- 広島市の水産業(広島市)
とにかく、まとめると、
1105年に江波島民 西淸八が、他国より牡蠣を集めて海中に散布し養殖(地播き養殖法)を始めた
ことが今のところ広島最古の牡蠣養殖となる。
なお、1105年といえば、藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂を建てた年で平安時代後期。
ヨーロッパ・中国の牡蠣養殖を調査した際に、「地播き養殖法」は既に2000年前にヨーロッパで確立してたので、もっと前より広島人が「地播き養殖法」を知っていた可能性は高い。
「1105年に江波島民が牡蠣養殖を始めた」は真実か?
今のところ、「西淸八」なる人物の情報はどこにも見つからない。
飢饉時に麦三石を与えれるほどの人物で他の地域とも交流ある島民が江波島にいた・・・、本当なのか?
そして、1105年に江波島で飢饉があった事は広島の歴史書に残ってない。
江波島について書かれた古文書を調査必要か。
さらに、「傅説(ふえつ)に依れば」という一文がある。
この「傅説(ふえつ)」とは、史記に出てくる殷の武丁(高宗)の宰相と伝えられる伝説の人物。
殷は紀元前1600年頃 – 紀元前1046年まで続いた中国最古の王朝・・・そうすると傅説が平安時代ましてや江波島の事を知るはずがない。
※東京都町田市相原町にある「泰良観音堂碑」の碑文にも「傅説に依れば慶安(南北朝時代)の頃・・」のような記事を見つけた。色々な時代・場所に現れるね。
「伝説によれば」=「傅説によれば」という意味で使われていると推測。
ちなみに、そもそも古来の広島の形は?
広島市は江戸時代に埋め立てられて作られた。
つまり、平安時代・室町時代には存在してない。
1991年01月25日「広島の埋立史」網干寿夫(広島大学名誉教授)、土質工学会に、広島市内の埋め立ての歴史図が載っている。
因みに「江波島」があった場所は赤丸の場所。
さて、この手の記事って、最後まで読んで下さる読者っているのかしら??