海のミルクとも言われるほど、栄養価が高いことで人気の牡蠣。
カキ養殖の歴史に関して、今までもこのサイトで紹介してきました。
カキ養殖発祥の地はどこか?
日本では「広島県が牡蠣養殖発祥の地」と水産庁のサイトに書かれています。
貝類養殖については、延宝(えんぽう)年間(1673~1681年)に安芸(あき)国(現広島県)沖合の瀬戸内海においてカキの種苗を干潟等にまいて成長させる地まき式養殖としてカキ養殖が始められたとの記録が残されています。
【引用】養殖業の歴史(水産庁)
また、多くの文献やWebサイトでは大正13年に草津村役場が発行した「草津案内」を参考文献として紹介しています。
天文年間(1532年~1555年:室町時代の後期)安芸国(広島県)において養殖の法を発明せり
「草津案内」は水産試験場支場開設記念として発行されました。
大正時代の草津町地図と、草津町の商店・飲食店の広告が多数入ったB6判の書物です。
これが、最も古い日本の牡蠣養殖についての記述だとされてますが、この書物も、何かの文献を参照して書かれているはずです。
とはいえ、今のところは、日本の牡蠣養殖は室町時代後期に広島県で始まったと考えられています。
広島県のどこがカキ養殖の発祥地か?
広島県のどこで始まったのかは分かってません。
このため「我らの地こそ広島県での牡蠣養殖発祥」と主張するページが多い(そして根拠に乏しい)!!
例えば、 船富水産
広島牡蠣養殖発祥の地、船越町の元祖広島かき
そして、 ザ・広島ブランド
牡蠣養殖発祥の地「草津」草津かき
確かに仁保、矢賀、海田、草津等には、牡蠣養殖を始めたとする伝承がそれぞれの地区にあります(船越は情報がない)。
調べた限りのカキ養殖に関わる文献を年代が若い順に並べてみました。
年代 | 場所 | 内容 | 参考文献 |
---|---|---|---|
1532年~1555年(天文年間) | 安芸国(広島) | 安芸国(広島)において養殖の法を発明せり | 「草津案内」大正13年発行 |
1619年(元和5年) | 広島(仁保) | 浅野藩主「浅野長晟」が広島に転封されるや、間もなく紀州かきを広島の干潟に移入 ※ 広島の干潟=仁保と書かれている(太田川デルタの漁業史) |
自得公済美録 |
1624年~1644年(寛永年間) | 仁保 | 仁保島渕崎の吉和屋平四郎、岩石を沈めて(石蒔)養殖を始める。のち竹木を立てて、さらに竹に特化して(ひび建)養殖を続ける (※仁保村志が編纂された昭和4年頃、吉和屋は、まだ事業を行っていた為に詳細に記されている) |
1929年 仁保村志 |
1624年~1650年(戦国末江戸初期) | 矢野 | 矢野における養殖の初めは明らかでないが、山岡某と云う人が蛎の密着したヤマツゲの木を見て始めた (「国郡志御編集ニ付下調べ書出帳」に記載) |
1958年 矢野町史 |
1627年(寛永4年)~ | 矢野 | 和泉源蔵が矢野村大井に住み着ついた。その後、雑木を立てて養殖を試み、さらに竹を立てて完全に成功し、それ以後盛んとなる (※「矢野城主野間氏の子孫 満丸が矢野村の和泉源蔵の養子となり、寛永4年(1627)に大江灘(矢野大井)に移り住み灘茂左衛門となった」とあり、1627年から養殖を始めた訳ではない) |
1958年 矢野町史 |
1659年(万治2年) | 海田 | 海田市で養殖場を村役場より戸毎に分当し、一戸に二間口を配当し営業 | 19年慣行届 |
1663年(寛文3年) | 広島 | 12月、伊予(愛媛県)松山藩の城主、松平定行は安芸国広島より牡蠣70俵を購入し、領内の浦々に移す ※ 70俵=仁保50俵、草津20俵と書かれている(太田川デルタの漁業史) |
大日本農史巻上(212頁) 伊豫本藩譜 |
1663年(寛文3年) | 草津 海田 |
牡蠣、在安南郡海田其色白其味甘出干佐西郡草津海亦可也 | 1663年 芸備国郡志 |
1673年~1681年(延宝年間) | 草津 | 小西屋五郎八(本名:小林五郎左衛門)が竹枝に附着した牡蠣の成育状況の速い事を発見し、ひび建法で1年生かき採苗法を考え出した | 成跡書 |
1755年(宝暦5年) | 江波 | 江波島、仁保島村潟境争い裁許状に魚ひび建のことを記す | 江波漁協文書 |
1767年(明和4年) | 丹那 | 丹那浦、中屋伊平牡蠣ひびを試み好結果ありしより、中屋伊平外百拾八名許可を得、夫々境界をなし営業 | 26年漁業制度取調書 |
1781年(天明元年) | 坂 | 坂村伊豫屋利助、石蒔養殖を始める | 19年慣行届 |
1813年(文化10年) | 観音 | 観音広瀬村の者、牡蠣ひび差立願出るが差止めとなる | 小川家文書 |
1848年(嘉永元年) | 厳島(宮島) | 厳島、浜役所にて試みに牡蠣を育養 | 19年慣行届 |
1861年(文久元年) | 廿日市 | 廿日市村、牡蠣ひび場は山代政治、三輪弥助の発起にて本業と起し営業 | 19年慣行届 |
【参考】1977年広島かき出荷振興協議会刊『広島かき』、広島太田川デルタの漁業史、日本漁業史など色々
もともと広島市周辺では、縄文時代の貝塚からマガキやイタボガキの貝殻が大量に出土しています。
室町時代の後半から牡蠣の養殖が始まっていたのであれば、江戸時代には各地域で競うように養殖を開始したのだろうと想像できます。
ですので、上記文献だけでは広島カキ養殖の発祥の地は判断できません。
唯一、文献として地域が明確に書かれている文献に「1663年 芸備国郡志」があります。
こちらは、国文学研究資料館のサイトよりオンラインで閲覧可能です。
そして38ページ目(全117ページ)に次のように記載があります。
※ 画像は無断転載禁止となっていますが、部分的に「引用」の範囲で調査目的のために利用しています。
牡蠣 安南郡海田に在、其色白く其味甘し干佐西郡草津海に出るも亦可也
(なんちゃって現代訳)
かき 安芸郡海田にあり、その色は白く、その味は甘い。佐伯郡草津海の干潟に出ることもできる。
少なくとも、1663年には海田、草津において「カキ養殖」が行われていたことが分かります。
つまり、草津では「延宝2年(1670年)、小林五郎左衛門が海中に竹ひびを建て,それに付着した稚貝で養殖を図ったのが草津の牡蠣養殖の始まり」とされていますが、それより以前から養殖されていたことが分かります。
広島の牡蠣の由来は和歌山?
1619年、紀伊和歌山城主「浅野長晟」氏が広島に国替えになるときに産地振興の為に和歌の浦(和歌山)から牡蠣をを移植したと書かれています。
※ 浅野長晟の史書『自得公済美録』より
その目的は、かきを大型に改良することにありました。
その後、地理的に恵まれていた仁保島内潟で1625年頃から1643年頃までの18年間に古くから行われていた石付かき養殖法やかき地撤法に改良を加えた仁保式養蛎法が完成したとされます。
であれば、広島県のカキ養殖のルーツは和歌山県であり、和歌山県でも養殖が盛んであったと考えれます。
ですが、和歌山県の古いカキ養殖の歴史は発見できません。
ご存知の方は誰か情報を下さい。
他の県での養殖開始時期は?たとえば宮城県は?
カキ養殖で有名な産地に「宮城県」があります。
宮城県に残る最古の伝承には、次のようなものです。
日本のカキ養殖の歴史は十四世紀に広島で始まったと言い伝えられているが、確かな文献はない。
宮城県でも、江戸時代の初期に内海庄左衛門(延宝四年=1676=没)という人が松島の野々島で、天然の稚貝を拾い集め、適当な海面に散布して成育を図り、その採取期日を定めたのが始まりといわれる。
しかし、これも言い伝えであって、根拠となる古文書が残っているわけではない。【参考】女川町誌 続編
ようするに、少なくとも1660年~1670頃には、牡蠣養殖を始めていると思われます。
1600年代に,松島湾野々島で内海庄左衛門が島周辺に大量のカキが付着しているのを発見し,これを採取するとともに天然稚貝を拾い集め,適当な海面へ散布して育成したのが始まりと言われています。
水産庁のサイトで記載されている発祥時期より、こちらも早いです。
因みに、海外では?
ヨーロッパ
世界のカキ養殖の紀元は古代ローマ時代です。
2000年以上前の養殖方法はいたってシンプルで、浜にカキをばらまいて、自然繁殖させる『地播き養殖法』でした。
海があれば養殖することができ、そのまますぐに食べることができるために大人気な食材だったようです。
アメリカ
アメリカには先住民族が何世代にも渡りカキの天然礁を漁場として利用していた記録があります。
中国
中国における最初の牡蠣養殖は、北宋時代(960年 – 1127年)における広東省珠江デルタ地帯の「投石牡蠣養殖」でした(梅 堯臣の宋詩「食蠔」)。
また、明朝時代(1368年 – 1644年)になると鄭鴻圖による著書『業蠣 考』により牡蠣專業者のための插竹牡蠣養殖法が系統的に紹介され、明,清時代に中国各地に挿竹養殖法が広く行き渡りました。
・・・これを考えると、日本でもカキ養殖がもっと昔から行われていても不思議じゃないです。
まとめ
つづきの記事はこちらになります。