前回の日記で「また10年間は新発見はなさそうだなぁ・・・」と書いた翌週、
総本家、本家筋から多数の連絡を受け取りました。
親族も相手が本気だと分かると協力してくれるようです。
古い記事はこちら。
親族から墓石の俗名、除籍謄本を受け取る
誰の墓石か分からなかった墓が、親族が関係者に連絡をして頂いたおかげで分かりました。
除籍謄本の依頼もして頂いたようで、血の繋がりもハッキリしました。
市役所に傍系の除籍謄本を貰えるかダメ元で電話したら、
「傍系の除籍謄本は正当な利害関係がある場合(土地相続や利権)以外は取得できません。」
と断られてから4ヶ月・・・。
不法な方法で入手する事も考えましたが、正式なルートで入手可能できました。
前回、墨拓まで取った墓は「善一」という人のものだと言うことです。
書かれている文字は「善一」ではなく「安兵衛」に見えますが、古い墓石ではないので良しとします。
代々年回表
総本家が保有していました。
我々の先祖を知る資料としては一級品です。
詳しく調査することで、知らなかった親族の名前や没年、血縁関係等が分かりました。
さらに、総本家を含めた家系に関する遺言書が残っていました。
麓屋良左衛門は下黒瀬の村役人(庄屋)であり、早くに妻を亡くして男手で息子の麓屋保吉を育てた。
麓屋保吉は、広島を転々し仁保島に来て農業を始めた。保吉は、船越村の橋田屋の娘と結婚したが、その後の血は絶えた。
なるほど。
先祖は江戸初期は仁保島に住んでなかったようです。
そして、血は途絶えたと。
途絶えた
途絶えたぁぁぁぁ
途絶えたぁぁぁぁ
途絶えたぁぁぁぁ
途絶えたぁぁぁぁ
とは言え・・・、
日本は古来より血筋より家督を重んじたので仕方ないところ。
今後は、麓屋良左衛門の先祖を辿ることにします。
そうなると、保吉は2人の養子を貰ったことになります。
家督を継ぐのは長男なのに、次男を養子に貰った理由は何だろう?
そして、舞台は下黒瀬村(安芸国賀茂郡)へ
下黒瀬村 は明治22年(1889年)に発足しており、もともと次の2つの村(津江村・兼沢村)から構成されていました。
今は全て廃止された村・郡のようです。地図で示してみました。
「のほほん田舎の黒瀬」と言われているようで何もない所です・・・。
昔から歴史も興味ないのか「黒瀬町史」が作られたのも10年前です。
どの村も米麦2毛作中心で、めだった産物は記されていません。
・・、歴史的に寂しい地域です。
Wikipedia にすら、殆どの村の記載が無しです。。
それでも、通常は庄屋の名前は見つかるはずです。
現時点で分かっている庄屋・割庄屋の名前は多くないですが。。
- 賀茂郡兼沢村 庄屋
- 1744年~1774年 割庄屋 内田保左衛門
- 1804年~1831年 給庄屋 土井恕七郎
- 1850年 庄屋 充三郎・多助、割庄屋同格宗平
- 賀茂郡黒瀬組津江村
- 1796年 庄屋 佐太郎
- 1828年 割庄屋 佐々木雄平
そもそも「兼沢村」「津江村」のどちらの庄屋かも分かりません。
・・・調査は徐々に進めていきます。
1710年~1740年頃に下黒瀬村で村役人(庄屋)だった人をご存知であれば教えて下さい。
「麓屋良左衛門」に関して何かご存知の人がいれば教えて下さい。