新型コロナウイルスの拡大を受けて、自宅に籠もる人も多い中、私は外に遊びにいってます。
が、「三密」を守ってます。
やれることはサッカーとか、バトミントンとか虫取りぐらいですが・・・。
完全に話は変わり家系図調査についてです。
今までの調査の中で先祖発祥の候補は次のとおりです。
【本貫地説】
- 古墳時代に「保田古墳」として古墳に葬られた
- 室町時代に「保田村」の豪族
【武士から帰農説】
- 大友氏の元家臣、毛利氏に降参し帰農
- 毛利氏、安芸吉川氏の元家臣、上級家臣の元陪臣
- 安芸武田氏の元家臣で、浅野氏の移封で帰農
- 福島氏に附随して来広したが、改易に伴い帰農
- 大内氏の元家臣で、浅野氏の移封で帰農
【姓が変わった説】
- 房田万五郎の子孫。分家となり房田(ぼうだ)→保田(ぼうだ)→保田(やすだ)と姓を変えた
我が家の最古の状況を物語る唯一の資料がこちら。
保田保兵衛よりの遺言によれば
麓屋保吉の父は、安芸国 下黒瀬の村役人(庄屋)ら
勤めて居りし麓屋良左衛門の一子にて 少年の頃 母に
死別し断母の手に育てられしが不遇の身なりし故 一時広島
に出て 更に柞木上條に来り農業を営みんとの事なり
尚 保吉の妻は船越村の橋田屋より嫁にたる者なり
橋田屋とは保兵衛幼少の頃迄交際し続け居りし由なり
麓屋良左衛門には小供なく家は絶へたる由なり
麓屋良左衛門は1700年頃から1760年頃の人物だと推定されます。
「下黒瀬村」は明治22年(1889年)に「津江村」「兼沢村」が合併して作られた村です。
また「津江村」「兼沢村」の村役人は「土井」「内田」「佐々木」が大半を占める世襲文化のため、この部分の真偽は怪しいです。
ですが「火のないところに煙は立たない」ため、「村役人だった=豪族・武士から帰農」として色々なな推測を書き記しておきます。
「保田村」が「本貫地」説
賀茂郡の下黒瀬村から東に8km程度離れた場所に「保田村」と呼ばれる村が1600年頃まで存在していました。
苗字の80%は地名に由来しているため、本貫地は「保田村」で、室町時代頃は豪族だったという推測です。
「保田古墳(やすだこふん)」の関係者?
これは、恐れ多くも古墳に葬られた人物という推測です。
古墳時代に古墳に葬られた人は、指導者の人たちと、その一族の人たちです。
黒瀬町小多田、板城西小学校南東500m保田窯側に2基の古墳があります。
[住所] 広島県東広島市黒瀬町小多田558
保田古墳群は、前方後円墳1基と円墳1基からなる古墳群である。
前方後円墳(東側)は、全長約27m、後円部直系約16mで、3基の横穴式石室が墳丘に直交して並ぶ。
石材の大半は抜き取られているが、位置や規模から1号石室が最も大きく古いと推定され、その後に3号石室、2号石室が造られ、墳丘が前方後円に整えられたと考えられる。
2号石室は長さ約4.8m、幅1.2~1.3m、高さ1.5m、3号石室は長さ約4.8m、幅1.4~1.5mである。
円墳は(西側)は、直系約10.5m、高さ約2mだが、石室は長さ約3.2m、幅1~1.1m、高さ約3.2m、幅1~1.1m、高さ約1.3mと小さい。
3号石室からは、大量の須恵器、鉄製品(短刀、鉄鏃、馬具)、装身具(玉類、耳環)が出土しており、この古墳群は6世紀後半~7世紀前半にかけて築かれたと考えられる。
残念ながら保田古墳に葬られた人物が誰なのか?は分かっていません。
「保田村(やすだむら)」の豪族?
これは、その土地柄の豪族だった為に、その地の名を姓にした・・・という考えです。
「芸藩通志」に
此村もと国近、森近と、今の支郷行定、保田(やすだ)、飛郷の馬木、今田、大河内七名、各一村にて有けるが、後、国近村、森近村と二に分れしと、また二名を結び、一村とす
とあり、南部を国近、北部を森近と呼んだそうです。
つまり、かつて次のような村だったのだが、
- 国近村、保田村、馬木村、今田村、大河内村、行定村、守近(森近)村
統合されて、
- 国近村(国近村、保田村、馬木村、今田村)
- 守近村(大河内村、行定村、守近(森近)村)
最終的に「国近森近村」となりました(1601年)。
現在でも「保田会館」と呼ばれるバス停、「陶芸の里 保田窯」などという名で残っています。
度分(DMM) | 34.3404396 132.7228293 |
残念ながら「保田村」がいつの時代に出来て、その名前の由来は分かっていません。
武士から帰農説
仮に江戸時代に「庄屋」をしていたのが正しいのであれば、「武士から帰農」の可能性があります。
要するに安芸広島藩領であれば、様々な君主の家臣だった可能性があります。
福島氏に附随して来広したが、改易に伴い帰農
福島氏に附随して来広したが、改易(元和5年(1619年))に伴い帰農
帰農した時代が遅いので、今のところ可能性は低いと思っています。
毛利氏、安芸吉川氏の元家臣、上級家臣の元陪臣
毛利氏、安芸吉川氏の元家臣、または、上級家臣の元陪臣の可能性があります。
- 毛利氏・・・・長州移封(1600年)
- 安芸吉川・・・鎌倉時代末期の正和2年(1313年)に宗家が安芸国に移住、岩国へ着任(1600年)
お隣の安芸郡には割庄屋や上級庄屋に元家臣が多く、庄屋や与頭、献金でそれらの同格クラスになった家は、元陪臣(例えば阿曽沼氏の家臣等)も少なくないようです。
帰農した時代が遅いので、今のところ可能性は低いと思っています。
安芸武田氏の元家臣で、浅野氏の移封で帰農
安芸武田氏の元家臣で国人化していたが、浅野氏の移封で帰農したとする説です。
- 安芸武田氏・・・大内氏の命を受けた毛利元就等に攻められて滅亡(天文10年(1541年))
旧賀茂郡周辺では、特に安芸武田氏に関係していたような家系のお話は耳にした印象があります。
下黒瀬であれば、現在の東広島市八本松町の曾場が城の落城が関係している可能性もあります。
- 曽場ヶ城・・・大永3年(1523年)の鏡山城の戦いによって大内氏の安芸国支配の中枢であった鏡山城が落城し、大内義興によって大永7年(1527年)頃に築かれた。天文12年(1543年)廃城
ただし「保田」姓の人物は見つかっていません。
大内氏の元家臣で、浅野氏の移封で帰農
大内氏の元家臣で国人化していたが、浅野氏の移封で帰農したという説です。
- 大内氏・・・弘治3年(1557年)大内義長は毛利氏に負け滅亡
Wikipediaの「大内氏」に対して、2017年頃に大幅に家臣情報が加えられました。
そこに「保田興勢」なる人物の名前が書かれています。
さらに調べると「守護大名大友氏関連和歌短冊集成(佐々木孝浩 著 2015)」に次のような短歌が書かれていました。
どうやら「保田興勢」という人物の官途は「修理進」のようです。「修理進」は修理職の第三等官で身分は高くありません。
【修理進】
大進、少進がある。大進は三等官の上席で、従六位上相当。少進は次席で、従六位下相当
ですが、継続調査をする動機としては十分です。
公式Wikipediaからは削除されていますが、参考文献としては次のようなものが挙げられていました。
- 「地方別日本の名族」9 中国編
- 「鎌倉末期周防国衙領支配の動向と大内氏」
- 安田元久編「鎌倉・室町人名事典 : コンパクト版」
- 米原正義編「大内義隆のすべて」
- 松岡久人「大内氏の研究」岸田裕之編
[参考] 大内氏に仕えていた家臣を探す(山口県立山口図書館)
姓が変わった説
海老根城城主の房田万五郎
これは、我々の先祖が、もともとは房田氏であるという推測に基づきます。
そうすると「麓屋良左衛門(1690年~1760年頃)が安芸国 下黒瀬で村役人(庄屋)」とある遺言状とも・・・合致するようにもみえます。
姓が次のように変わったという考えです。
房田(ぼうだ)→保田(ぼうだ)→保田(やすだ)
「房田」という、広島県西部である安芸の豪族が昔はいました。
具体的には、房田万五郎という豪将が、天文年中(1532~1554)に海老根城(市飯田)にが入城していたと文献には記載されています。
養子の房田杢之進宗友は大内氏に仕えていましたが、1561年に岩山城が毛利氏に攻略された際に降参し、海老根城を焼き払い下屋敷(上保田と市飯田の境)に移り住んでいたとの事です。
まとめ
これらの情報をまとめると、
古来は保田村の豪族だったが、大内氏の修理進となり、弘治3年(1557年)に大内氏が毛利氏に負けて黒瀬村で帰農した。
となります。
推測の域は出ませんが・・・・。
※ 江戸時代の太田川の改修者に他の「保田氏」の名前を見た記憶があり、大内氏の修理進はこちらのご先祖様かもしれません・・・。
なお、広島には浅野家の家臣に「保田氏」がいますが、屋号は「縄屋」で紀伊国から移って来た武士です。
保田八十吉など著名人がおり「保田家系譜」に詳しいですが紀伊国の保田氏一族の子孫だと思われ関係ありません。