今回のあらすじ。
陰徳太平記ではなく、大日本文書(毛利、吉川、小早川など)でやると可能性が広がるかもしれません。
(また知らない書物…)ありがたき情報!すぐやってみる〜!
セミプロの郷土史家から連絡を頂いた。早速試してみよう。
今回の「大日本文書」の調査にあたり、前回の画像処理の仕組みを変更した。
ただし話を混ぜると難しくなるので、ここでは紹介しない。
大日本古文書って何?
分からない時には何でもWikipedia。
東京大学史料編纂所がその前身の文科大学(現・東京大学文学部)史料編纂掛であった1901年(明治34年)7月に刊行されはじめた。古代から近世までの古文書を収録した古文書集である
その内容構成は「編年文書」・「家わけ文書」・「幕末外国関係文書」の3部
文書 | 内容 |
---|---|
編年文書 | 大宝2年(702年)から宝亀10年(770年)までの古文書を編年順に集めたもの |
家わけ文書 | 古代から中世の古文書を22の所蔵者別に収録したもの |
幕末外国関係文書 | 嘉永6年(1853年)以降、幕末における外交関係の文書を集めたもの |
広島ゆかりの「家わけ文書」の構成内容は次の通り。
家わけ文書 | 構成内容 |
---|---|
第2巻、浅野家文書、1冊 | 家わけ第2 |
第8巻、毛利家文書、4冊 | 家わけ八ノ一、家わけ八ノ二、家わけ八ノ三、家わけ八ノ四 |
第9巻、吉川家文書、3冊 | 家わけ九ノ一、家わけ九ノ二、卷之九(追加三) |
第11巻、小早川家文書、2冊 | 家わけ十一ノ一、家わけ十一ノ二 |
第14巻、熊谷家文書、三浦家文書、平賀家文書、1冊 | 家わけ十四ノ一 |
中身を見て分かったが、家別・時代別に現存する自筆の訴え状などを活字として残してくれている文献のようだ。
同行人、手柄を立てた人など細かいので調査する価値が非常に高そうだ。
ただ、その分 量が多い……。
一冊350ページで計算しても約4000ページ。
ダウンロードだけで33時間(30秒毎の休憩が必要)、確認と合わせて土日は終了。
因みに、なぜか「浅野家」だけフォーマットが異なった。
まぁ浅野家は江戸時代以降に広島に入城したので無視でよいと思う。
なお、巻によっては書籍として購入も可能で、図書館にある場合もあるので調べて見ると良いだろう。
文書中に該当文字は存在したか?
見つかった「保田/安田」「房田」の該当結果のみ記載する。
【大日本古文書. 家わけ第8(毛利家文書)】
安田 | 周防国安田保住人(八ノ一 p.22)、馬屋原信春大夫手 安田神六討捕之(八ノ一 p.245)、安田少輔十郎(八ノ一 p.124、八ノ二 p.49、八ノ二 p.51)、安田長右衛門(八ノ四 p.81) |
---|
弘治3年、毛利氏は防長に進出した際、芸備の国人領主らと軍勢統率に関する契約を認めたが、和智一族から和智誠春・柚谷元家・安田元賢・上原豊将の名が挙がっている。
馬屋原信は毛利元就の甥の子を養子に迎えた人物であり、安田神六を討伐した。
永禄4年(1558年)3月26日に毛利元就は長男の隆元や重臣を連れて三男の隆景の住む三原へ旅行に行った。そのお供の一人が安田少輔十郎(元賢)。
慶長11年(1606年)12月14日、毛利氏 萩城の築城工事において重臣団が対立した重大事件。福原広俊以下819名の連署起請を求めた。その中の一人が安田長右衛門。
【大日本古文書. 家わけ第9(吉川家文書)】
慶長5年8月26日、伊勢国津城合戦手負討死注文にて、桂右近(毛利家と近縁)が安田弥左衛門を手負いと記載。
吉川広家功臣人別帳に勢州(伊勢国)津城の安田助八。
【大日本古文書. 家わけ第11(小早川家文書)】
安田 | 安田少大輔十郎(十一ノ一 p.101、十一ノ一 p.102)、 |
---|
ここでも「毛利家文書」同じく、三男の隆景の住む三原へ旅行に行った話が書かれている。お供の一人が安田少輔十郎(元賢)。
【大日本古文書. 家わけ第14 (熊谷家文書,三浦家文書,平賀家文書)】
安田 | 安田知行(p.109)、安田息つ方(p.192)、母は備後安田息(p.194) |
---|---|
保田 | 安芸国造賀保田万里村等(p.372)、弘頼小早川敬平の造賀保田万里村等に関する提訴の謂なきことを注進す(p.372) |
小早川敬平(1452~1499年)は備後地方の武将。造賀とは「広島県東広島市高屋町造賀」の事。
黒瀬町に戦国時代まで存在した「保田村」より更に北にも「造賀保田万里村」と呼ばれる地域。調べたところ、この地域にも「保田」姓が数人住んでいた。
※ 「造賀保(高屋町造賀)+田万里村(賀茂郡竹原町)」のこと。
第14には手がかりなし。
過去の調査内容と統合して考える
戦国時代の調査は今回が三回目。
とりあえず、一旦まとめてみる。
国文学研究資料館蔵「短冊手鑑『筆陳』」
「筆陳」は、長府毛利家・保坂潤治旧蔵。
守護大名大内氏関連和歌短冊集成(慶應義塾大学学術情報レポジトリ)でも確認可能。
- 大内氏家臣団(戦国期)で修理進であった保田興勢が和歌を残している
陰徳太平記
- 大内義長の最後(1557年5月1日)に安田入道も自害(合本2)
- 安田入道の息子安田五郎、安田小次郎も自害(1557年5月1日)(合本2)
- 吉川元長勢の山県木工之助(丸山城の戦い(1585年)で開戦の鏑矢を射た人物)の家臣「安田甚介」(合本4)
- 吉川広家の家臣である「安田喜左衛門」が朝鮮出兵(1592年-1593年)にて河下城攻にて先陣できった(合本4)
大日本古文書
- 永禄4年(1558年)3月26日に毛利元就は長男の(毛利)隆元や重臣を連れて三男の(小早川)隆景の住む三原へ旅行に行った。そのお供の一人が安田少輔十郎(元賢)(毛利家文書)(小早川家文書)
- 慶長11年(1606年)12月14日、毛利氏 萩城の築城工事において重臣団が対立した重大事件。福原広俊以下819名の連署起請を求めた。その中の一人が安田長右衛門(毛利家文書)
「安田少輔十郎(元賢)」って何者?
と思い調べると、角川の大辞典に同じ参考文献を元に記載があった。
安田村
室町期~戦国期に見える村名。
備後国三谿郡のうち。湯谷荘のうちという(芸藩通志)。吉舎大慈寺所蔵宗綱語録の中の奇山秀大師五七日拈香に「備后州三谷郡安田村居住,辻塚孝男藤原春実,某日伏値養母某五七忌辰」と見え,応永年間末に安田村住人が養母の供養を行っている。
戦国期に至ると弘治3年,毛利氏は防長に進出した際,芸備の国人領主らと軍勢統率に関する契約を認めたが,和智一族から和智誠春・柚谷元家・安田元賢・上原豊将の名が挙がっている(毛利家文書)。
続いて永禄4年毛利元就・同隆元父子が小早川隆景居城雄高山を訪問したとき供奉した衆の中にも,安田少輔十郎(元賢)の名がある(小早川家文書)。
安田氏は奥尾(尾首)城に本拠を置いていた。
永禄12年和智誠春・元家(久豊)の兄弟は毛利隆元毒殺の嫌疑をうけて誅殺され,一族安田氏も安田から離れた模様である。
なお臨済宗清浄山香積寺は天文15年安田氏の建立。角川日本地名大辞典(旧地名編)
追加情報ほとんど無いーー。
読む限り「安田氏」という一族がいたようだけど、肝心の部分の引用元が書かれていないーー!
ここから分かったことは?
分かりませーん。
分かるわけ無いよね、先祖の血縁関係者かも知れないし、違うかも知れない。
分かる事は先祖調査に終わりは無いって事ぐらい。
まあ、髪の毛一本でも残っていればDNA鑑定で血の繋がりの有無ぐらいは分かるかもね。