今の社会ですら、海外赴任・移住という機会に恵まれることは少ない。
でも、自分の高祖父(ひいおじいさん)がロサンゼルスに赴任して教師をしてたり、曽祖父の妹はロスで生まれたという事実を聞いた。
※ ペンリンに赴任していた事実が、後の調査で判明。
今と比べると、さぞかし大変だっただろう。と想像するが、そのバイタリティには感服する。
先月は傍系の高祖母の軌跡を訪ねて「ルーミスでの先祖探し」をしてたが、直系の先祖も調べたくなった。
実は10年前にも調べた(除籍謄本、総本家、屋号)が、私の知識が足りず調査が行き詰まってしまっていた。
※最新調査結果は「旧安芸郡仁保島村(仁保村)で生活していた先祖調査 2」です。
書物から見つけた先祖の軌跡
私の直系の親族は広島出身で、当時「日本で最大の村」と言われた「仁保島村」に住んでいた。
江戸時代初期の広島市は「干潟」か「小さな島」で構成されており、江戸中期以降の埋め立てにより現在の形が形成された。
この辺りの事はWikipediaを見れば書いてある。
さらに驚いたことに、インターネット上で「仁保村志(著・大澤篤太郎)」や「安芸郡風教誌」「明治十年内国勧業博覧会出品目録」などの古書が読めるようになっていた。
先祖の生きた軌跡を10年前には一切見つけることが出来なかったが、これらの文献から先祖・親族の名前を見つけることができ、次のような事がわかってきた。
- 牡蠣を博覧会に出品した
- 村役人(村会議員、助役、筆生、収入役)を行っていた
- 養蚕の講習会に参加した
こうなってくると、俄然 調査意欲が出てくる。
「墓石からはあまり情報は得られない。」と思って軽視してたが、改めて昔撮影した墓石の写真の調査から始めた。
墓石が教えてくれた事
我が家系で一番古い墓石には、
麓屋太平次(1859年7月22日没)
と書かれている。
つまり太平次は嫡男ではないため分家となり、総本家とは別の場所に墓を建てたということを意味している。
では、総本家を継いだ嫡男は誰なのか?その嫡男の祖父、曽祖父、高祖父は誰なのか?
それは、総本家の除籍謄本や墓を調査するしかない。
総本家には
多四郎(1790年生-1865年8月10日没)
という人物がいたことが総本家の除籍謄本から分かっている。彼が嫡男だと推測している。
また、総本家の墓石には、一番古いものに、
法名:釋智善(1762年没(宝暦十二年壬午))
と書かれたものがある。
これが最も古い先祖の墓だと思われる(※総本家からは「280年以上続く墓」と聞いている(つまり1724年)ので、もう一代 古い墓があるのだろうか・・・)。
年代を考慮して繋げてみると、家系図は次のようになる。
墓石が一般に広まっていくのは、江戸期の高度経済成長時代といわれている元禄の頃(1688年~1707年)。
百姓でも元禄あたりからの墓が残ってれば有力者、1750年代頃になると、少し裕福な庶民は墓を作るようになった。
という記述をどこかで見たので、先祖は少し裕福な庶民だったのかもしれない。
法名の調査等が完了した時点で、菩提寺に過去帳の写しの作成を依頼したい。俗名が分かるかもしれない。
やること・やったこと
家系図専門の行政書士のサイトを徘徊しながら、必要な事&やるべき事を再度整理してみた。
また、Office Word で作成していた家系図をOffice Excelで作り直し、家系図作り屋の品質レベルに高めた。
Bootstrapを使ってWebシングルページも作成中。
家系図作りはライフワークのようなもので、調べることを列挙すればキリがない。
- 除籍謄本(遡れるだけ遡る)
- 墓石(位置・年代・形からも推測可能)
- 位牌(法名を書き写す)
- 菩提寺(過去帳の写しを作ってもらう、ご住職の話)
- 神社(寄進碑に親族の名前を探す)
- 法務局(旧土地台帳を手に入れる)
- 元庄屋宅(人別帳があるか、関連する書物があるか聞き込み)
- 土地の分限者
- 郷土史家(古文書のありかを聞く)
- 研究家(古文書のありかを聞く)
- 大学の歴史研究室(古文書のありかを聞く)
- 自治会代表宅(古文書のありかを聞く)
- 区有文書(古文書のありかを聞く)
- 地域の墓苑すべての調査(親族に繋がる墓が別にあるかも)
- 検地帳(御水帳、田畑書上げ帳)
- 名寄帳(村人ごとに所有田畑をまとめて記載してある)
- 人別(宗門人別帳、宗旨人別改帳、本百姓宗門改帳、切支丹宗門人別改帳、家人牛馬御改帳)
- 五人組帳
- 分限帳(武士の場合)
- 古城跡
- 旧家の土蔵
- 同姓調査(総本家調査)
- 地域全体の家紋分布調査
- 近隣県同姓調査(片っ端から連絡してみる)
- 古文書(江戸初期以前は古文書に頼るしかない)
子供の頃から次のように親族から聞かされていた。
「うちの家は【地主】だった。周囲の人が挨拶していった。多くの土地も所有していた。」
この言葉は、子供時代に「どんな先祖だったのだろう」と興味を持つキッカケには十分だった。
その興味をようやく満たせるようになってきた。
仁保島村の「人別」や「検地帳」を持っている、どこにあるか知っている。という方は是非とも連絡をして欲しい。
仁保島村・柞木浦・淵崎浦周辺の「太平次」「太四郎 多四郎(改名:保兵衛)」という名前にピンと来たら是非とも連絡をして欲しい。
その他の情報、および親族と思われる方からの連絡も待ってます!
【追記 2015.11.08】
郷土史会に問い合わせしたところ、多くの古文書は、江戸時代、仁保島で唯一住職のいる寺であった西福寺にあるとされているが、現在は寺の方針として個人的興味による古文書の閲覧はさせていないとのことでした。