国立公文書館デジタルアーカイブで近代文語文を読む(先祖調査:大力房吉)

趣味で色々な人から依頼を受けて先祖調査をしている。

情報が多く出てくる人もいれば、無名な人も大勢いる。

教員や役人などの公務員や起業家・社長や公的団体に所属している人は見つけやすい。

逆にもっとも情報が無いのは

 
 

サラリーマン

 
 

サラリーマンは起業家と比べてガラスの格子に囲まれ、風の吹き抜ける場所から遠く離れている。

彼らは国の税金招集だけの道具であり、活気に満ちた社会活動は遠い存在だ。

そして自身の名を歴史に刻むことなく、日々をただ消耗し、無彩色の世界で生きるだけの存在に過ぎない。

サラリーマンであっても国や県大会で実績がある人は何かしらの名前が残りやすい。

が、多くのサラリーマンはそんな努力しないので期待はできない。

 

僕は行政書士ではないので他人の戸籍や除籍謄本を行政から手に入れる事は禁止されている。

でもデジタル技術やオンライン情報を駆使して世界中から日本語に限らず調査する実力はプロ以上と自負してる。

該当人物の名前は文字列一致を確認すれば良い。

ただし、その人物の経歴や戦歴を理解するには

  • 時代背景
  • 地方背景
  • 家族構成

そして

  • 古文書読解能力

が必要だ。

今回の調査対象者は僕の

ヒイヒイお爺さんの妻の父親の息子

に当たる人でアメリカに住んで日本語が読めない家族から調査を依頼された。

親族向けに文献を公開することが目的だが、それだけの日記であり楽しくないので飛ばして頂戴。

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時代背景を理解する

明治時代に生きた人物を調査すると大抵

 

出兵記録

 

が出てくる。

 

今回の調査対象者は

 

1904年 日露戦争の遼陽会戦

 

において第2軍の騎兵第5連隊として加わり、捜索・警戒を任された。

遼陽会戦りょうようかいせんは、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。

1904年8月24日から9月4日まで行われた。

近代文語文(漢文訓読体)

国立公文書館デジタルアーカイブにある多くの書籍に武勇伝として記載があった。

  • 芸備史 (郷土資料) 出版者:軍事思想普及出版部 出版年月日:昭和10
  • 忠烈花中の華(著者:井田麟鹿 出版者:以文館 出版年月日:明44.11)
  • 明治三十七八年戦役忠勇美譚 第2編(著者:教育総監部 出版者:東京偕行社 出版年月日:明40.3)

大力一等卒は廣島縣安藝郡奥海田村の人なり我軍遼陽を攻撃し之を陷るや騎兵第五隊は太子河右岸に進出し専ら敵情の捜索に任せり時に一等卒は斥候長尾崎軍曹にひ烟方向を捜索すへき任を受け小(烟の南方約一里)に前進す時恰も九月にして高梁繁茂し彼我共に遠望するはす忽ちにして敵騎約三十に遭ひ殆と相接して其間歩を出てす是に於て互に馬上射撃をなす偶敵の將校の射せる拳銃め一等卒の馬傷き人馬共に倒る一等卒直に起ちて馬を救はんとせしもれて起つ能はす即ち其鞍に藏する彈藥の全部を出し盡く之を衣に入れ馬の傍らに膝姿以て敵を拒くととも衆敵せす是を以て斥候長は一等卒に速に退却すへきを命す一等卒慨然として曰く願わくは殿となりてに止まり敵を拒止せんと頑として動かす軍曹即ち余等小に退却し汝を収容せん須らく速に還すへしと遂に一等卒の護に依り小に退却し待つこと久しくして還らす依て更に前進し一等卒を求む途に之に遇ふ一等卒の曰く敵騎約二十更に加して右方より大に進入せり我彈藥旣に盡き復如何ともするはすかす速に退却せんにはと是に於て斥候は敵の追撃を免れ漸く還するを得たり一等卒の豪なる單身能く優勢なる敵を拒否し斥候をして安全に退却せしめ且つ最終に至るまで敵の動静を監し以て其任務をすか如き其動の沈着なる眼中殆と敵なしといふへし時に一等卒の銃を見るに携せし彈藥に射尽し唯最終に充塡せし五し以て急󠄁に應せんとす匆卒の際尙且つ此注意あり人をして其周到なるに驚嘆せしむ

分かるようで、細かい意味が分からない文面……。

原本表記で文字を文献から抜き出して打ち込む事にも時間がかかった……。

さらに今回はこれを英訳する必要があるので完全に理解しないと誤魔化すことすらできない。

現代語訳

古文書や近代文語文は読めることを目標にしていない。

理解できれば手段は選ばない。

例えば今回は詳細な調査結果、他の文献に現代語訳を見つける事ができたので抜粋する。

  • 忠魂録(出版者:軍事思想普及出版部 出版年月日:昭和10)

単身殿となる大勇士

敵騎30を撃退

「下士斥候」

8月23日から9月5日の朝まで前後14日にわたる激戦を経て、敵将クロパトキンが20余万の大兵を備えたる遼陽の要害も、我軍の猛撃につづく猛撃には抗し得ずついに撃破せられて全軍笑を含んで遼陽に入城し敵の南満州における根虜地は、全く我軍の占領に帰し烟台以南、太子河の上流本渓湖の東南方にはまた敵の隻影を留めざるの状況にいたったが、騎兵第五連隊は長駆して太子河右岸に進出し、もっぱら敵状の捜索に任じていた。

第二中隊より放たれたる下士斥候せっこう尾崎軍曹の一隊が烟台方面の敵状を捜索すべき任務を受けて小台(烟台の南方約1里)に向って前進した。

時はあたかもも九月、満州特産の高梁の繁茂はんも期で、長さは丈余に及び乗馬しても遠望することの出来ない状態にあった。

軍曹は前方を警戒しながら進むうち高梁畑の続いた道の曲り角で数歩の間で露軍将校の卒ゆる約30のコサック騎兵に出逢った。

此彼共とっさに馬上射撃をもって交戦を続けるうち、敵の将校が射った拳銃弾のため大力一等卒の乗馬を射られ忽ち人馬もろともドーット、倒れたが一等卒は直ちに起きて乗馬を救わんとしたが馬は急所を射られて容易に起たず、敵はますます乱射して敵九は味方の身辺に落下するのが雨か霧のようである

一等卒は自若として弾丸雨注にあってその鞍袋に入れてある弾薬を全部取り出してことごとくこれを衣袋に入れて倒れし愛馬に寄り添いて屈姿をもって沈着に敵に向って防戦大いに努めたが、衆をたのんだ敵兵や我騎兵の数騎より外にないことを知り射撃はいよいよ急にして到底これを撃退し難きを思った軍曹は
「おい大力一等卒後は引き受けたから速やかに退却をせよ」
と命じたが一等卒は奮然として、
「軍曹殿、私は殿をつとめます、今の中に早く引きあげて下さい」
「いや、お前は徒歩だから・・・早く・・・・」
「いや、私は大丈夫です。どうか私がこの敵を食い止めて居りますから早く・・・」
と頑として聞かず、なおも敵に向って射撃を続けている。

単身敵中へ

ここにおいて軍曹は、身に敵情報告の大任を帯ぶ、情において忍び難きも・・・
涙をふるって、一等卒に快別を告げ、
「俺達は小台に退却して、お前を収容す、すみやかに引揚げて来い」
と一等卒の庇護によって斥候は難なく小台まで退却することが出来た、が、かなり長い時間を待ったが一等卒は引揚げて来ぬ。

ここに於て軍曹は、一等卒を救援のために再び前進する途中で引揚げて来る一等卒遭った。その無事なることを喜んだ軍曹は、
「おーい大力一等卒・・・」
と後は声が出ない程の感激に燃えて、・・・
「軍曹殿、敵は撃退しましたが、また後から約20騎増加して右方から大台たいだいに侵入しました。私の弾薬も、すでにつきて如何とも致し方なく引揚げてまいりました」
斯くして斥候は敵の追撃をまぬがれて、ようやく本隊に帰還し。

敵情捜索の大任を全うすることを得たのである。
大力一等卒が単身殿となって大敵を引受けたるその豪胆と生死を超越したる鬼神も泣く悲壮凛烈の意気、尊い犠牲的精神の前には、さすがの敵も胆をひしがれて退却したものであろう。

然も最終に至るまで敵の動静を監視してこれを報告するが如き、その沈着なる行動と眼中ほとんど敵なき豪胆と更に一等卒が携帯弾薬を全部射つくしたるも、ただ最終に充慎したる五発を残して本隊へ引揚げる途中の急に應せんとしたる生死の間にあって、且つこの周到なる注意ありたるに至っては、日本軍人の典型ともいうべく一等卒の為めに生還し得たる尾崎軍曹以下の斥候は悉く感激の涙に咽んだことであろう。
一等卒は安芸郡奥海田村の出身にして大力房吉という。

この後、房吉は渡米しサクラメントで百貨店やホテルの経営を始めて大成功を収めた。

おわりに

先祖調査は戦争や活躍ぶりを美化するために行ってる訳ではない。。

ただ幾千もの尊い命により今の平和が創られたのだと改めて感じた。

 

過去は「真実」、現在は「現実」、未来は「口実」。

 

最後の一節は僕が追加したものだが、これを胸に調査を継続する。

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