東大安田講堂事件。
それは、全学共闘会議および新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠し、大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して
1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件
1960年から1970年代は学生運動が活発化し熱い時代だった。
日米安保条約への反対
ベトナム戦争に対する反対
これらを気に学生運動は激化していった。
全国で起こった学生紛争の波は、中国地方でも例外ではない。
岡山、広島、山口、島根、鳥取の国立五大学では、紛争の経過、規模には違いはあったが、学生たちのエネルギーは、二十年間にわたってほとんど改革されることのなかった大学の病根を指摘して、紛争を拡大していった。
そして中国地方で広島大学はその中核的存在だった。
- 学生自治を求める運動
- 反戦運動
- 反差別運動
- 学費値上げ反対運動
- 学寮の運動
- 就職活動の適正化
- 学生会館の自治要求
蛇足だが、ゲーム「ぷよぷよ」の生みの親でコンパイル創業者 仁井谷正充氏は1968年に広島大学に入学し学生運動に没頭していたとのこと(Disc Station 11号より)。
【用語集】
用語 | 意味 |
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全共闘 | 全学共闘会議。1960年代後半の大学紛争に際し、全国の諸大学に結成された学生組織 |
過激派三派 | 中核派、社学同諸派、社青同解放派 |
中核派 | 日本マルクス主義学生同盟中核派。極左暴力集団 |
革マル派 | 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派。共産主義革命を究極の目的とする極左暴力集団 |
社青同解放派 | 日本社会主義青年同盟解放派(略称:解放派)。1965年に結成された新左翼党派 |
民青 | 日本民主青年同盟。青年の要求にこたえ、民主主義、社会進歩をめざす自主的な青年組織 |
ゲバ棒 | ゲバルト棒。学生運動全盛期の「安全ヘルメット(ゲバヘル)」「粉じんマスク」と並んで利用されていた武器 |
タテカン | 立て看板。政治的主張のためにベニア板などを用いて作られキャンパス内に設置された |
内ゲバ | 内部ゲバルトの略。同一陣営または同一党派内での暴力を使用した抗争のこと |
アジビラ | アジテーション・ビラの略語で、政治的扇動(煽動)を目的とする文言を記載した書面 |
スト | ストライキのこと。労働者が業務を停止することの他に学生が団結して授業や試験をボイコットすることも含まれる |
ピケ | 敵が来ないように見張るスト破りの監視役のこと |
セクト | 組織の派閥(英 sect)のこと。セクト同士が内乱する「内ゲバ」が 70 年代以降目立つ |
ノンセクト・ラジカル | 党派に属さない学生 |
ノンポリ | 「nonpolitical(ノンポリティカル)」の略。政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人 |
バリケード | 運動の一環で建物を占拠する際、敵の侵入を防ぐ目的で作られた「壁」。机・ロッカーを積み上げて作られた |
【注意】1万文字を超える文章となっています。
昭和44年(1969年) 広大紛争の始まりから終結
1968年 全体として平静
1968年に、なんらかの紛争が起きた大学は、全国で116校にのぼった(原因は、学生会館・学寮をめぐる問題が最も多い)。
広島大学では2月、羽田闘争・佐世保闘争に参加して逮捕された学生に対し、育英会奨学金が停止されたことをめぐって「育英会に抗議せよ」と主張する学生による川村智治郎学長の缶詰事件が起こった。
さらに、この事件に対する処分をめぐり教育学部長拘禁事件が起こり、7月には青医連問題をめぐって医学部で短期ストが行われた。
10月21日には呉市の米国広弾薬庫前でデモの広大生と警官隊が衝突、11人逮捕されている。
しかし、この年は全体として平静であった。
【広島大学の公式サイトに書かれている1968年の出来事】
日付 | 出来事 |
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1月29日 | 東京大学医学部学生自治会ストライキに入る(東大紛争始まる) |
3月25日 | 紛争のため、昭和42年度卒業証書授与式および大学院学位記授与式を分散で行う |
4月8日 | 昭和43年度入学宣誓式および大学院入学宣誓式を分散で行う |
1月 広大紛争の始まり
1969年1月9日に、教養部学友会の活動家学生を中心に、広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)が結成された。
ここから広島大学における大学紛争がはじまった
発端は、1969年1月の米原子力空母エンタープライズの佐世保入港。
こうして
- 安保反対闘争
- ベトナム反戦闘争
- 羽田闘争
- 原子力空母佐世保寄港反対闘争
などを経て、大学当局に対する八項目要求を標榜するころから全学的紛争の様相を呈してきた。
- ① 新学生ホールの自主管理(管理運営を学生に任せてほしい)
- ② (大学が運営する購買会に代わって)生活協同組合の設立
- ③ 大学会館の自主管理(管理運営を学生に任せてほしい)
- ④ 体育館の自主管理と西条大学村の建設
- ⑤ 学生準則の撤廃
- ⑥ 寮炊婦の公務員化
- ⑦ 東大入試中止にともなう振り分け増募粉砕(各大学への振り分け増募に対する反対)
- ⑧ 全学自治会連合の公認
※ 広大は、学生の自治とかを認めない態度できていた(②や③は他の大学は既にやっていた)
日付 | 出来事 |
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1月9日 | 広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)結成 |
2月 学生ストライキが始まる
2月8日の教養部の学生大会にて2項目を加えた十項目要求についてスト権確立の採決が行われ、その結果その結果、1165対1041でスト権が確立された。
- ⑨ オリエンテーション・セミナーを学生の手に
- ⑩ 大講義室の使用反対
このストライキの可決により
1969年2月11日 教養部の学生がストライキに突入した
評議会は 2月12日と19日に全共闘との「団交」に応じた。それぞれ2000人を超す学生が参加するという関心の高まりが見られた。
© 川村智治郎学長(手前)、元政治学者 北西允政経学部教授(右3列目)/中国新聞社
しかし、大学側が話すとマイクを切ってしゃべらせない一方的なつるし上げ。
この間の2月15日に川村智治郎学長は疲労により耐えられず辞任。
大学側は3月初めの入試を迎えて入試業務に全力を尽くすという理由で、交渉も成果をあげることができないまま、その後は、評議会との団交は途絶えてしまった。
2月24日に一部学生による教養部新館封鎖。
そして2月28日には全共闘学生が大学本部封鎖・占拠
2月中に教育学部もストに入った。
その後、紛争は学部ごとに進行していき、ストライキとバリケード封鎖も逐次拡大していった。
© ザ・ロンゲスト・デー : 広大封鎖解除機動隊奮戦記
日付 | 出来事 |
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2月24日 | 一部学生により教養部新館が封鎖される。以後逐次拡大し、東千田地区のほとんどの建物が封鎖され、また、霞地区においても医学部の建物が封鎖される |
3月 機動隊立ち入り事件
大学側は3月3日からの入試を学外の11会場に求め、機動隊に守られながら実施、全共闘学生は連日会場にデモ行進し対立を続ける。
封鎖された正門には「広島解放大学」の看板が掲げられていた。
© 広島大学の歴史/広島大学
この間、学生の要求は、しだいに政治的なものに拡大してゆく。
一方では3月末から4月にかけて二回の機動隊立ち入り事件があり紛争に油をそそいだ。
- 3月30日、広大学学部構内の大学会館で当時の全共闘の寺岡宗悟議長代行が評議会団交をめぐって起こした傷害容疑の現場検証のため機動隊約100人が立ち入り
- 4月10日、広大医学部構内に警察車が迷い込み、学生が車を取り囲んだことから機動隊約200人を出動
日付 | 出来事 |
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3月25日 | 昭和43年度卒業証書授与式および大学院学位記授与式を分散で行う |
4月 学生ストが拡大
傷害事件での立ち入りは文学部教授が告発したことが背後にあったことから、文学部でも4月10日、教授会と学生との団交が決裂してのち、一部の学生は文学部の建て物を封鎖した。
また本部郊外にある医学部も4月10日の事件を受け、4月11日から無期限ストに入った。
ついで政経学部も、ストかどうかを決める学生大会が参加不足で3回流会したあと、4月21日、一部の学生によって封鎖された。
『生きて』 政治学者 北西允さん <12> バリケード封鎖より
このように、4月以降 ストライキ決議をした学部・学科はもちろん、スト決議がなされないまま封鎖された学部においても
受講中に活動家が教室内に入り込んで、中断を余儀なくされることの繰り返し
で授業の実施は困難であった。
さらに、3月3・4の両日に学外で実施された昭和44年度入学試験による合格者を迎え入れることもできない状況であった。
結局、正規の授業を続けたのは3学部(工学、歯学、水畜産学)と教育学部二分校(福山、東雲)だけだった。
© 霞キャンパスの歯学部前のバリケード/広島大文書館
日付 | 出来事 |
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4月1日 | 工業教員養成所を廃止。医学部に薬学科を設置。水畜産学部に附属水産実験所を設置。保健管理センターを設置 |
4月9日 | 昭和44年度大学院入学宣誓式を分散で行う。学部入学式は行われず |
5月 飯島宗一学長の就任
結局、5月中旬までには本部構内にある4学部(教育、理学、文学、政経)の全部がストや、一部学生による建物封鎖によって
授業は完全にストップした
2月15日に疲労により辞任した川村智治郎学長の後は三好稔学長代行によって運営されていた。
そして4月25日に学長選挙を実施し、紛争の積極的な解決への期待をになって40歳台の飯島宗一学長が選出された。
北西允政経学部教授が「団交はしばらく続けるが機動隊を入れて封鎖解除をするしかない、その責任をとって辞めれば長い期間にはならない」と説得し、学長候補の5人に入るよう工作し、助手以上が選ぶ選挙で圧勝させた。
『生きて』 政治学者 北西允さん <12> バリケード封鎖より
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
飯島学長の選出によって広大紛争は新しい天気を迎え、
大学側は、それまでの消極的な姿勢から積極的な姿勢に転じてゆく
- ①どんな学生とでも徹底的に話し合う
- ②大学紛争の根本問題は、社会の急激な変化と学問の進歩についてゆけない大学の体質にあり、学内改革を全教職員で積極的に進める
- ③その場合、一大学の問題ではないので、社会一般や政府・文部省にも国立大学の一員として働きかけ理解を求める
5月2日に第一回(約2500人が参加)および5月15日に第二回の団交がおこなれた。
- 全共闘の要求:封鎖戦術による「帝国主義大学解体」、バリケードの中での「闘う秩序の形成」
- 学長の要求:バリケード封鎖を一手段として提起された課題にこたえるための封鎖解除
© 広島大学の歴史/広島大学
飯島学長は、全共闘学生の論理的な矛盾を突くとともに、これまでに大学側がとってきた政治運動を規制、学生部のあり方を率直に反省し、これらの改善を約束した。
全共闘は、これ以後学長との団交には消極的となった。
一方、教養部教官会をはじめ各学部教授会は、学長の話し合い路線を受けて、5月から7月にかけ、しばしば学生側との話し合い(団交)の場を持ち、大学の自治、国家権力との関係、新しい大学のあり方について討論することで事態の打開を目指していった。
日付 | 出来事 |
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5月7日 | 教授飯島宗一が第4代広島大学長に任ぜられる |
6月 大学と学生の団交が決裂
こうした討論を背景にしながら大学側は、自宅待機を続けてきた新入生約2000人に対し、6月4日から迎え入れることを決める。
新入生の授業開始について全共闘学生は団交を要求。
その事前接渉では、教官と学生の主催する自主講座を併行して開くことで話し合いがついていたといわれたが、学生側は最終的にこれを拒否。
6月中に4回にわたって開かれた新入生受け入れ団交は6月20日に決裂。
決裂は、全共闘の内部で政治的路線を全面に推し出した中核派の強硬路線が主導権を握ったことを意味しており、それ以後には大学側は、しだいに話し合いによる解決を断念していく。
広大本部構内にある学部で、最後まで封鎖されないでいた理学部が、5月15日に一部の学生によって封鎖されたあと、全共闘を批判する学生の運動も活発になった。
6月21日には批判派学生が飯島学長と討論集会を開くと全共闘学生約150人はヘルメット姿で会場に押しかけて集会を阻止し、
大学側との関係は決定的に断絶する
それ以降、大学側は文書による広報に重点をおいた。
6月25日には飯島学長は全共闘の方針を批判し、教育と研究を再開してその中で大学改革を討論してゆく文章を全学生に配布した。
6月27日には全共闘学生が、警察部隊の立ち入りを予想し、広大周辺の舗道の敷石を大量にはぎ取り、学内に運び込むという事件が発生した。
日付 | 出来事 |
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6月4日 | 4月以来自宅待機の措置が取られていた昭和44年度新入学生1,873名に対し、吉島公園においてオリエンテーションを行う |
7月 授業再開の改革案の検討&警察力に頼る道を決断
地元市民や父兄の間からも紛争収拾への要望が現れるようになった。
7月7日には東千田町構内周辺の10町内会長が、営業上の不利・損失、日常生活を脅かす騒音・示威等をあげて、不当行為の禁止と一日も早い紛争解決への努力を学長に要請した。
7月14日には、大学立法の動きや学内の状況を踏まえ、改めて文書で学生・教職員に封鎖解除と大学の改革への理解を訴えた。
そして7月18日からは、スト・封鎖の学部に一ヶ月の短縮夏休みを実施。
大学側はその間、授業再開のための努力や改革案の検討に全力をあげる。
学内では、封鎖支持派の学生による学生・教職員に対する暴力事件が発生していた。
また、広島大学の封鎖は、強固なものであり、封鎖解除の断行にあたっては、教職員・学生の人的被害の発生が予想された。
学内には、警察力の導入に対する批判もあったが、
学長は、警察力に頼る道を決断した。
学長は、7月下旬に、封鎖解除のための出動要請を県警本部長におこなった。
しかし、警察側の準備等の都合から、それは、8月17日に決行されることになった。
7月31日には大学改革委員会が八項目要求についての新見解、それに続いて改革に当たっての基本的な方向「広島大学改革への提言(仮設0)」を公表した。
日付 | 出来事 |
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7月31日 | 大学改革委員会が「広島大学改革への提言(仮設0)」を全学に配布 |
8月 全共闘と大学のすべてが決裂
8月3日には、教養部父母の会が初めて開かれ、学長に一日も早い授業再開を要望した。
これらを踏まえ、8月7日には全共闘に対する公開質問状を学長名で行った。
それは8月17日から大学は外部の力に頼ってでも授業を開始する
という決意を明らかにしたものだった。
これに対して全共闘は激しい調子で大学を非難する回答を送り、すべてが決裂した。
紛争によって生じた長期間にわたる授業の行えない状況は、大学や学生にとって切実な問題となってきた。
教務委員会の検討により、冬期休業を全く実施しないとしても、8月18日に授業が再開されないければ、大量の留年が発生するということが判明した。
留年学生には奨学金の停止措置がなされるという問題もあった。
政府は、中央教育審議会の答申を経て、5月24日、「大学の運営に関する臨時措置法」(大学立法)を国会に上程した。この法案は、紛争校の学長や文部大臣に、紛争を収拾するための教育・研究機能の休止・停止権を与え、収拾が困難な時の廃学措置までも盛り込んだもので、5年間の時限立法であった。大学側や野党は、この法案に強く反対したが、実質審議もないまま8月3日に可決成立し、8月17日から施行されることとなった。
文部省は、8月16日、この法律に基づく適用対象校(国立38校、公立7校、私立21校、計66校)を発表した。広島大学もこの中に含まれ、教養部・理学部・教育学部は紛争6か月以上、文学部・政経学部・医学部も紛争中とみなされた。これにより、広島大学長は、文部大臣に紛争状況を報告する義務を負うことになり、また、発生後9か月まで紛争が続いた場合、文部大臣により大学の「機能停止」措置が取り得ることとなった。
『生きて』 政治学者 北西允さん <12> バリケード封鎖より
日付 | 出来事 |
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8月7日 | 大学の運営に関する臨時措置法公布。広島大学評議会は抗議声明 |
8月17日 機動隊1200人と学生の正面衝突 1日目
大学が外部の力に頼ってでも授業を開始すると伝えた1969年8月17日、大学側は封鎖解除のため広島県警に対し機動隊の出動を要請。
これにより
30時間に及ぶ攻防戦が広島大学で行われた
県警始まって以来と言われる機動隊員1200名(制服規制部隊900名、その他300名)は、学長の退去命令伝達と同時に午前5時から正門バリケードはじめ、各学部の建物封鎖を解除を開始した。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
「封鎖」解除は、総括班によって事前に周到に準備されたスケジュールによって行われた。
対策本部は「封鎖」されていなかった南千田キャンパスの工学部に設置。
解除の当日は、キャンパスの正門前には警察機動隊の車列が駐車しており、また新聞社の車両もあり、周辺には緊迫した雰囲気があった。
中核派は、大学本部籠城組と本部前の宇品線デモ組の二正面作戦で機動隊と対峙する計画を立てていた。
やがて予定された時間通り、本部キャンパス内では、機動隊がブルドーザーで正面バリケードを除去し、続いて本部の封鎖解除に向かった。
© ザ・ロンゲスト・デー : 広大封鎖解除機動隊奮戦記
広島大学本部の建物には全共闘学生29人(うち女性4人)が立てこもり火炎瓶、投石によって抵抗を続けた。
© ザ・ロンゲスト・デー : 広大封鎖解除機動隊奮戦記
機動隊のガス銃部隊は、突入部隊を援護するため、たえまなく学生のたてこもる屋上にガス弾を打ち込んだ。
© ザ・ロンゲスト・デー : 広大封鎖解除機動隊奮戦記
さらに機動隊は催涙弾と放水車で抵抗した。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
屋上のバリケードは、警察ヘリコプターの風圧で簡単に吹き飛ばされた。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
この間、火炎瓶の投下で隣接した学生集会所の建物の一部が燃えるという騒ぎがあった。
籠城学生たちは、本部六階の庇に雨戸を立てかけ、そこから火炎瓶や石を投げて抵抗していた。
その際、火炎瓶は隣接する木造建ての元本部建物(学生集会所/学生ホール)を炎上させた(午後10時50分頃)。
© 文書館所蔵・総務課旧蔵資料
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
また17日には学外に立ち去っていた学生150人も、正門前の道路を中心にゲリラ戦を続けた。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
投石やデモ行進で激しく抵抗し、一時は交通がマヒするなど騒然とした状態が続けた。
警備隊は放水車2台やジュラルミンテントなどを使って大学本部へ近づき、15時47分に一階正面玄関バリケードを解放した。
ただし全共闘系学生が「日本一の砦」と豪語していた大学本部は、バリケードの強固さ、投下される火炎瓶、石、そして劇薬の量は、そのいずれもが予想以上で容易に進むことはできなかった。
二階まで突破したところで安全を考慮し19時15分に作業中止。翌日に持ち越しされた。
8月18日 学生を逮捕し封鎖解除 2日目
本部の各階はコンクリートで固められたシャッターで閉鎖されていたため、六階建ての本部を解放するには二日を要した。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
機動隊は再び午前5時から本部の封鎖解除にかかった。
学生は再び激しい投石を続けたが、機動隊は学生の逮捕直前まで迫っていた。
落城を前に占拠した本部屋上で革命歌(インターナショナル)をうたう学生29人(うち女性4人)。
© 廣島大学新聞 第169号
そして午前11時15分 屋上で29人の学生を逮捕し封鎖解除が終了
濡れねずみのようになった顔面蒼白の籠城学生が数珠繋ぎにされて本部から連れ出されたが、その中には中核派学生だけでなく一般学生も含まれていた。
© ザ・ロンゲスト・デー : 広大封鎖解除機動隊奮戦記
8月後半~ 解除後は授業再開
バリケード封鎖が解除されると、大学側は学生を立ち入り禁止するとともに機動隊の常駐を要請して復旧作業をした。
© 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日/泡沫(うたかた)の日々
8月後半には機動隊導入によって全面的な封鎖解除が行われ、9月1日から授業再開となった。
全共闘学生や「広大奪還」や「授業阻止」を目標にとくに最初の3日間は激しい阻止行動をとり、その後も学内デモや教室に入っての討論要求などを繰り返した。
しかし教養部校舎前の森戸道路での最後の学内デモは30人にも満たないほどであった。
大学側は9月末日まで機動隊の警備を要請するとともに教職員によってこれらの活動を規制し、授業の再開を守った。
一方、紛争のきっかけになった大学の改革についても全学的な改革案だけでなく、学部ごとの改革案が討議された。
本部郊外ある医学部だけは4月11日からのストを9月になって全学的な授業再開から孤立しながら独自の要求で闘争を続けた(10月に医学部の研究室封鎖を自主解除)。
日付 | 出来事 |
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9月3日 | 広報委員会配布の「学生諸君へ」において、広島大学はどんな妨害があっても授業を推進すると宣言 |
9月28日 | 大学改革委員会は「当面の改革に関する建議(第一次)」で総合大学としての広島大学の将来計画を立案し、それに即応した用地の確保を使命とする強力な特別委員会の設置を建議 |
10月1日 | 広島大学学生準則を廃止 |
11月11日 | 評議会がキャンパス問題を中心に検討するため、将来計画特別委員会を設置 |
おわりに
僕は無精ヒゲと 髪をのばして
学生集会へも 時々出かけた就職が決って 髪を切ってきた時
もう若くないさと 君に言い訳したね© いちご白書をもう一度(1975年/昭和50年)荒井由実 作詞・作曲 バンバン 唄
『いちご白書』をもう一度/松任谷由実
8月17日、18日、マスコミはあげてこの事件を報道し、ヘリコプターは広島市上空を乱舞した。
本部にこもっていた学生が投げた火炎瓶は2日間で約600本(全部で750本以上)。
しかも火炎瓶の中には、これまでどこの大学でも使用されてなかった爆発力の強いものまで含まれた。
他にも空きビン、消化器、ガソリン缶など約500個、石塊約1500個が投げられた。
火炎瓶投下数では東大の安田講堂解除のときの本数を上回っており、解除に2日間を要した点からも
東大闘争につぐ激しい抵抗
と言われている。
2日間の闘争による逮捕者は計56人(占拠学生29人、デモ学生11人含)、負傷者も学生、警官など計24人を出した。
激しかった学生の攻撃
街頭を吹き荒れたゲリラの嵐
青空をこがす猛火
そして火炎瓶の雨
集まった広島市民5000人がじっと見守る中で行われた封鎖解除
全国民の耳目をひきつけた2日間であった
【参考文献】
各文献で出来事の日付がバラバラであったが中国新聞社の中国年鑑に合わせている。
- 広島大学、機動隊によるバリケード解除の日
- 『生きて』 政治学者 北西允さん <11> 広大紛争
- 『生きて』 政治学者 北西允さん <12> バリケード封鎖
- 大学紛争と学友会の分裂
- なぜ広島大学移転は決意されたか?
- 【書籍】中国地方大学紛争の実態 昭和45年版 中国年鑑(中国新聞社/1969年)
- 【書籍】重要日誌8月 昭和46年版 中国年鑑(中国新聞社/1970年)
- 【書籍】証言大学紛争: 危機的状況に対する広島大学教職員の記録(広島大学文書館編/2009年)
- 【書籍】ザ・ロンゲスト・デー 広大封鎖解除機動隊奮戦記(広島県警察機動隊編/1970年)