広島県安芸郡(廣島県安藝郡)仁保島村にて初代カキ株仲間であり、土地測量・村役人として貢献した保田家の軌跡
「広島太田川デルタの漁業史(著者・川上雅之)」の水産偉人伝の章にて、広島カキ・ノリ養殖の祖とされる吉和屋平四郎(大浜来三郎の先祖→誤ち:仁保郷土史会 吉岡氏の先祖)、御茶屋半三郎、葭屋忠四郎(葭屋[言令]三の先祖)、金井半右衛門(庄屋、吉田家から金井家になる。半べえ庭園 金井家の先祖)と並び保田保兵衛(弘化3年7月15日生~大正5年1月2日没)を次のように賞しています(【関連】2022年11月19日(土)仁保公民館祭配付資料 100年前の土地測量図に見る明治の仁保~保田家文書調査説明会)
「渡辺測量士に学び、その弟子として、土地測量技能を獲得した人である。明治5年地券制が施行されるに当り、仁保島村管内の山林、田畑、屋敷は勿論、海面養殖場図等必要とする測量と製図を明治34年迄には全村完成している。当時使用された、測器具(平板測量)と製図器具、着色剤等多数のものが尚保存されている。
又、当時学んだ、算数、測量法の書籍が存在している。中に文政13年庚寅秋越後水原数学道場著があり、他には、当時使用された野帳と考えられる沢山の記憶つづりがある。
明治28年箕作博士(箕作佳吉:1857年~1909)の報告に、猿猴川尻の漁業図が農商務省報告として残っている。
村木寅一(助手)の言によれば、測量人員は、平坂一脚で、遠く、似島、宇品島、金輪島も一つ一つ実測されたと云う。
平坂付き一人、ポール持一人、テープ持ち一人と土地熟知の者一人を案内人として計4人によって行われたものであると云う。
保田家は、かき養殖が家業であり、技能者として村役場にも関係を持ちつつ、精密な大判の漁場連絡図が幾枚も残っている。
明治35年、漁業法施行に伴う漁業権免許が平穏に、正確に遂行ができた。この功績は実に偉大である。」
明治34年の実測及び台帳製作者は金井半兵衛、三保折造、保田保兵衛(測量、製図及び台帳整理の主任者)、大浜賢造、池田治平、岡田藤右エ門、葭屋関次郎であり、保田保兵衛亡き後は北川作次郎がこれに替わった。
「麓屋良左衛門」は安芸国下黒瀬の村役人(庄屋)で、「麓屋保吉」は良左衛門の一人っ子でした。
保吉は少年の頃に母が他界し継母の手に育てられました。しかし不遇なため広島に出た後、仁保島村の柞木にきて農業を始めました。
保吉の妻は船越村の橋田屋であり、橋田屋とはその後100年近く交流がありました(「代々年回表」より)。
1743(寬保3)年12月、「保田保兵衛」は仁保島14のかき船の営業者(渕崎本浦:金井半三郎、奥村忠次郎、大浜来造、和田辰次郎)と共に「カキ仲間」を結成しました。 草津のカキ仲間に加わり、大阪堀川でのカキ営業を独占しました(「広島太田川デルタの漁業史 第1輯/川上雅之」より→誤記の可能性あり)。
1863(文久3)年、牡蠣仲間の牡蠣が混合した時の配分の目安の中に「四盃三合 保兵衛(40歳)但シ二口」との記載があります(「尚古」広島尚古会の「草津村蠣仲間(二)/新見吉治(明治40年(1907年))」より)。
1877(明治10)年に「保田安次郎(25歳)」が東京上野公園で開催された内務省主導の博覧会「第一回内国勧業博覧会(8月21日~11月30日)」に仁保島の「かき」を出品しました。仁保村からは海苔、牡蠣、牡蠣灰、綿布を出品しました(「明治十年内国勧業博覧会出品目録」「住屋(世良)二代記 -ふるさと熊野文化財探訪-」より)
1862(文久2)年に「先・保兵衛(39歳)」「彦兵衛(28歳)」、1875(明治7)年「保田保兵衛(29歳)」が柞木・渕崎のカキ床、ノリ床の漁場所有権、営業権を譲渡しました(「広島太田川デルタの漁業史 第2輯」より)。
1885(明治18)年春蚕期から3年にわたり、淵崎大町の養蚕場にて「養蚕及び製糸の講習会」が開催されました。講師は仙台の「安永総兵衛(後に広島の由良指導員)」、講習生として郡内より青年処女20余名選出されました。「本浦 金井勇次郎」「淵崎 保田松次郎(20歳)」「向洋 大澤卯之吉」「日宇那 山根初之丞」らが参加しました(「仁保村志」より)。
1897(明治30)年9月1日から同年11月30日まで兵庫県神戸市で「第二回水産博覧会」が開催されました。「保田安次郎(47歳)(淵崎本浦海苔業組合頭取)」は仁保島の「乾海苔」を出品しました(「第二回水産博覧会出品目録. 二」より)。
1902(明治35)年11月26日、渕崎・本浦漁業組合(伏崎)が設立しました。組合員147名で初代組合長は保田安次郎(村役場助役兼務)でした(「太田川デルタの漁業史 第2輯」より)。
「保田安次郎(助役(明治20.5.23-42.9.10)、筆生、村会議員(明治25-37年,大正6-10))
「保田平四郎(村会議員(明治22-30年))」
「保田松次郎(村会議員(明治40-大正2年))」
「保田健槌(収入役(大正8.11.4-昭和4.3.31))」として活躍しました(「仁保村志」より)。
日清(1894(明治27)年)・北清(義和団事変:1900年)・日露(1904(明治37)年)及び日独戰役 出征兵士名102名の名前の中に「保田健槌」の名が刻まれています(竈神社の階段の下の「忠魂碑」より)
明治36年に大阪等他県に出荷していた有力者と考えられる人物の一覧に「保田保兵衛(自家かき船営業)」「保田周太郎(殻付きかき生産者)」「保田平四郎(殻付きかき生産者)」がいます。
明治36年に「保田芳太郎」が、かき漁場81.0坪を「島田舜蔵」に譲渡した記録が残っています(「太田川デルタの漁業史 第2,3輯」より)。
1890(明治23)年に「保田平四郎」が仁保島の「繭」と「海苔」を第三回内国勧業博覧会(4月1日~7月31日)に出品(「第三回内国勧業博覧会参考品目録参照」より)し、「海苔」で「褒状」を授与しました(「第三回内国勧業博覧会受賞者人名録」より)。
保田松次郎が、広島浅野家 家中「桑原家」を多額の支援した見返りで、多くの掛け軸(真贋不明)を受け取りました。桑原家との関係不明(牡蠣業関連?)。
1926(大正15)年10月~昭和2年12月に「保田松次郎(62歳)」が合併臨時委員の一人に推薦され、5回の総会で広島市との合併を審議しました(「仁保村志」より)。
1916(大正5)年に「保田平四郎」の息子「保田順造(24歳)」がPenryn, CAに渡米(船名:大洋丸)、1927年に「保田正男(18歳)」が「庭師」として、1937年に「保田勝巳」「保田正巳」らが「学生」としてLos Angeles, CAに渡米(船名:浅間丸)・永住しました(「ロサンゼルス淵崎本浦人會々員名簿」「結婚届」「渡航記録」より)。
1917(大正6)年に「保田松次郎」の息子「保田良吉(29歳)」が教師として米国に入国(船名:天洋丸)しました。その際「保田松次郎」の妻「大力ウメノ」の弟「大力房吉」の食品雑貨店(Penryn, CA)に下宿してました。 1919(大正8)年に米国にて娘が誕生しました(「出生記録」「渡航記録」「米国国勢調査」より)。
縄文・弥生時代は、広島湾の水位は高く太田川デルタは存在せず、「邇保嶋(仁保嶋)」「ニの嶋」「金輪島」「牛奈島」などの小島が存在するだけでした。
仁保島には大和時代(390年)より人が住み始め、丹生(にう)と呼ばれる日本で有数の朱砂採掘地として大きな役割を担っていました。
西の「安芸の宮島」、東の「仁保島」として近くを通る船を楽しませていたとされ、平安時代前期の公卿・小野篁(参議篁)(802-851年)の歌「入海の 二十浦かけて 十島なる 中に香深き 島は七浦」が残ってます。
「七浦」とは漁業拠点である「柞木(ほうそぎ)浦」「淵崎(渕崎:ふちざき)浦」「日宇那(ひうな)浦」「丹那(たんな)浦」「大河(おおこう)浦」「本浦(ほんうら)」に加え、向洋島の「向灘(むかいなだ)浦」を意味します。
仁保島の主要産業は漁業であることから、民衆は一戸に一艘以上の船をもっており水軍や水夫として戦うことができました。このため諸豪族達による水軍として島民の争奪戦が繰り広げられました。その後、安芸国守護であった「安芸武田氏」のもとで水先案内人を勤め海賊衆(警備衆)と呼ばれました。
江戸期の初め「似島(にのしま)」「金輪島(かなわじま)」「峠島」「大珈玖摩(かくま)島(弁天島)」「小珈玖摩島(小弁天島)」「安堂島」「宇品島」を編入し「安南郡仁保島村」が発足し「日本で最大の村」となりました。
1662(寛文2)年、比治山から仁保島の大河浦にかけて築堤がなされ、翌1663(寛文3)年には「仁保島西新開」「仁保島東新開」が造成され、仁保島は比治山など広島城下と地続きになりました。1664年、仁保島村の住所は「安南郡」から「安芸郡」に変更されました。
地続きとなってから民衆の生活は漁業と山畑農耕の「半農・半漁」の様式に変わりました。また魚場が限られた住民は、1885年~1924年頃に新地を求めて北海道、ハワイ、カルフォルニア、ブラジルに多数が移住しました(最初の渡航者は1868(明治元)年5月153人。移民の96%は広島県(38.2%)・山口県・熊本県・福岡県の出身者で、ハワイ移住者は仁保村民だけで997名いました)。
大正6年(1917年)8月31日に「安芸郡仁保島村」から「安芸郡仁保村」に改称し、昭和4年(1929年)4月1日に「仁保村」は「広島市」に編入され「広島市仁保町」となりました。
【仁保村内の大字・小字】
地名 | 字名 |
---|---|
本浦 | 東山・宮の脇・岡サミ・十軒屋・古城濱・西一の割・大迫・杉山 |
淵崎 | 大町・地方・伏螭 |
柞木 | 柞木・露霞渡・単田 |
日宇那 | 東條・空條・西條・浜・新築地・楠那・東山 |
丹那 | 朝見原・東山・菖蒲崎・新地濱・西山 |
大河 | 三軒屋・五軒屋・十軒屋・香護山・オドロ・本町・山根・平岩・新築地・朝見原・山城屋・大下・浜町 |
向洋 | 露霞渡・青崎・妙見・櫨山・高山・洋・大森・大原・山の神・月見 |
堀越 | 堀越・阿弥陀・延命 |
似島 | 似島・大カクマ島・小カクマ島・峠島 |
1624(寛永元)年、仁保島の淵崎 吉和屋平四郎が「石付法」を開発し牡蠣養殖を始めました。その後「竹付法(ひび建て養殖法)」開発しました。また2代目平四郎は淵崎特有の養殖法である「3年養殖法」を開発しました。1743年にはカキ仲間制度のもと大坂方面におけるカキの販売権を独占的に握り、毎年旧暦10月20日から正月末まで町に架かる橋のたもとに船をつけてカキを販売しました(ただし名称は「草津牡蠣株」とされました)。江戸時代後期(1810年代)になるとカキ船上に座敷を設けてカキ料理も始めました(摂津名所図会大成)。
1658~1660年(万治年間)、仁保島の本浦 長三郎、御茶屋半三郎らが生海苔を加工し「えびら海苔」の製造を始めました。1811年には淵崎 葭屋忠四郎が、江戸浅草海苔の製法を学んで帰国し、えびら海苔を薄く漉く法(抄製法)を完成し、また忠四郎は海苔ヒビを女竹ヒビに改めました。淵崎・本浦と大河では、全世帯が海苔養殖の権利である海苔株を所有してました。明治35年11月26日、渕崎本浦漁業組合が設立しました。 渕崎本浦漁業組合は猿猴川の河口の一帯を養殖場としていましたが、成育期間が短く約4~50日の期間しか海苔が採れないという大きな欠点がありました。そのため1月末~4月一杯は大河や草津から、生海苔を買い入れて生産していました。
1662(寛文2)年、東新開の埋め立てによって米・麦、国策の奨励もあり棉花栽培が盛んになりました(米の2倍の利益がありました)。また明治時代は桑畑や果樹園などが増え養蚕業も盛んになりました。綿花輸入制限撤廃(1896年)の影響で棉花栽培は衰退し、綿畑は蓮根田(稲作より手間が掛からず、収入がよいため)に姿を変えていきました。また野菜や果物の栽培も行われるようになりました。
西本浦町。885(仁和元)年、丹生都比売(ニウツ姫)を祀った社殿が造営されました。神功皇后が三韓御出兵を終えて(西暦200年頃新羅を平定)畿内に帰るとき、仁保島の入り江に宿陣し、航海の無事安全のお礼として爾保都比売神(ニウツ姫)を祀ったとされています。仁保の獅子舞の始まりの獅子頭が奉納されています(1600年頃、本浦の漁師(白井屋、上野屋、浜井屋)が唐獅子と金仏と牡丹株をシナ海で拾ったとされてます)。
黄金山町。1495(明応4)年、白井光胤が武田氏から警固を命じられており、遅くとも室町時代には築城済でした。のちに大内氏に属しましたが応仁の乱の頃(1470年)より無城主状態続き邇保姫神社が仕切ってました。その後毛利氏の支配下におかれましたが1600年代に関ヶ原により廃城となりました。1555(弘治元)年の厳島合戦の際、陶晴賢が三浦房清を派遣し仁保島の占領を試みましたが城将 香川光景が撃退しました。
東本浦町。1885(明治18)年、アメリカやブラジルへの出稼ぎ者が増えました。故郷に錦を飾った証明として、風水害などから作物や家財などを守るために白壁の土蔵(2間(約3.6m)x3間(約5.4m)の2階建)が残ってます。かつては160の土蔵が存在してました。出稼ぎ労働として移住した者の中には、帰国を諦めて永住するものもいました。移住者数は日本で仁保村民が最多です。1911年の統計によれば、村民の32.3%が移民しています。
仁保一丁目。仁保城の城番であった三浦兵庫頭元忠が菩薩寺として建立した寺。 当初の山号は黄金山でしたが慶長年間に梵潮山に改称されました。 元忠が在勤したのは天正19年~慶長元年(1591~1596)の期間であり、この寺の創建は その初期吉田から連れてきた大工衆に当たらせ建築されました。
仁保一丁目。この山の本来の名称は「城山」。 黄金山という別名の由来は諸説あり、観音寺創建時の山号に黄金山とあることからその頃からの名称とも考えられます。 「山の中で白南天を見つけてその下を掘れば黄金が出る」という黄金埋蔵説など、さまざまな伝説が生まれています。写真は仁保嶋城一の丸磐座(神様が降地される岩)
仁保一丁目。1722(享保7)年、8月24日に漁民の家内安全や繁栄を祈念して竃神を祀りました。祭神は奥津彦神および奥津姫神で「荒神さん」とも呼ばれます。邇保姫神社の摂社で1808年(文化5年)正殿が再建されました。
仁保ニ丁目。1501(文亀元)年、浄土真宗本願寺派で本浦に開基した真言宗寺院です。1597(慶長2)年真宗道場として再興しました。現在の本堂・山門・鐘楼は1718(享保3)年に建立されました。伊能忠敬も全国の測量の際に宿泊した記録が残ってます。また赤穂浪士の一人であった武林唯七の祖父治庵の墓が建立されています(公式サイトの再建日は誤り)。
仁保ニ丁目。東雲の干拓により人工的に作られた湾が漁業として整備された港湾が渕崎港です。渕崎、本浦地区は、カキとノリの養殖が行われ、その発祥の地といわれています。 第二次世界大戦中に淵崎港の埋め立てが行われ軍用地として整されました。これにより淵崎港は漁港としての機能をほぼ失ってしまいました。
仁保三丁目。1808(文化5)年、この地を訪れた江戸後期の儒学者、頼山陽(1780-1832)と頼杏坪(1756-1834)がこの大銀杏を詠んだ漢詩を残しています。 渡部家の庭に立つ大銀杏で樹齢は分かっていません。
頼山陽「分流野水状チYチ爲ス 中二漁村有街巷斜ナリ 茅舎荻籬物色シ難シ 一株ノ銀杏是レ君ガ家」(仁保村志 p140)
仁保四丁目。現在の東洋大橋上流の狭い字を露霞渡と呼び、昔は岩場の海辺で小赤壁という別称もありました。絶好の月見場所だったため藩の侍たちが訪れて観月を楽しみ、その中の大岩を特に「侍石」と呼びました。「岩鼻やここにも一人月の客」の句が残ってます。
仁保四丁目。昔、このあたりに毎夜怪物が出て人々に妨害したので人々は社を建て、1793(寛政5)年9月10日、住吉の神を勧請しました。それ以来ここに怪物は出なくなって、以後人々は大変喜び敬まったといいます。
仁保ニ丁目。八九寸の竹に五色の短冊(昭和初期には赤紙のみ)を幾千万と結びつけます。机の上には果物や野菜を供え、数日後にそれらを飾り船に移します。そして、笛や太鼓、法螺貝などの楽器で賑やかに祭り、内潟を一巡した後に供え物を海に流しました。
Chiba-shi, Inage-ku, Chiba
Japan
10代 分家
保田
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家の血筋の続きがらを伝える手がかりを失うことは いかに悔しいことだろう。ありのままを書き残し 我が子どもたちに長く傳えたい(中川翔子氏の高祖父 伊藤一隆氏より)。