日本最大の村 仁保島村の広島カキ養殖と保田氏の歴史

広島県安芸郡(廣島県安藝郡)仁保島村にて初代カキ株仲間であり、土地測量・村役人として貢献した保田家の軌跡

書物・書面・石碑に残る保田氏の軌跡

「広島太田川デルタの漁業史(著者・川上雅之)」の水産偉人伝の章にて、広島カキ・ノリ養殖の祖とされる吉和屋平四郎(大浜来三郎の先祖→誤ち:仁保郷土史会 吉岡氏の先祖)、御茶屋半三郎、葭屋忠四郎(葭屋[言令]三の先祖)、金井半右衛門(庄屋、吉田家から金井家になる。半べえ庭園 金井家の先祖)と並び保田保兵衛(弘化3年7月15日生~大正5年1月2日没)を次のように賞しています(【関連】2022年11月19日(土)仁保公民館祭配付資料 100年前の土地測量図に見る明治の仁保~保田家文書調査説明会

「渡辺測量士に学び、その弟子として、土地測量技能を獲得した人である。明治5年地券制が施行されるに当り、仁保島村管内の山林、田畑、屋敷は勿論、海面養殖場図等必要とする測量と製図を明治34年迄には全村完成している。当時使用された、測器具(平板測量)と製図器具、着色剤等多数のものが尚保存されている。 又、当時学んだ、算数、測量法の書籍が存在している。中に文政13年庚寅秋越後水原数学道場著があり、他には、当時使用された野帳と考えられる沢山の記憶つづりがある。 明治28年箕作博士(箕作佳吉:1857年~1909)の報告に、猿猴川尻の漁業図が農商務省報告として残っている。
村木寅一(助手)の言によれば、測量人員は、平坂一脚で、遠く、似島、宇品島、金輪島も一つ一つ実測されたと云う。 平坂付き一人、ポール持一人、テープ持ち一人と土地熟知の者一人を案内人として計4人によって行われたものであると云う。 保田家は、かき養殖が家業であり、技能者として村役場にも関係を持ちつつ、精密な大判の漁場連絡図が幾枚も残っている。 明治35年、漁業法施行に伴う漁業権免許が平穏に、正確に遂行ができた。この功績は実に偉大である。」

明治34年の実測及び台帳製作者は金井半兵衛、三保折造、保田保兵衛(測量、製図及び台帳整理の主任者)、大浜賢造、池田治平、岡田藤右エ門、葭屋関次郎であり、保田保兵衛亡き後は北川作次郎がこれに替わった。

仁保島村に移住、開拓

「麓屋良左衛門」は安芸国下黒瀬の村役人(庄屋)で、「麓屋保吉」は良左衛門の一人っ子でした。
保吉は少年の頃に母が他界し継母の手に育てられました。しかし不遇なため広島に出た後、仁保島村の柞木にきて農業を始めました。
保吉の妻は船越村の橋田屋であり、橋田屋とはその後100年近く交流がありました(「代々年回表」より)。

仁保島村カキ仲間株(新株)の結成

1743(寬保3)年12月、「保田保兵衛」は仁保島14のかき船の営業者(渕崎本浦:金井半三郎、奥村忠次郎、大浜来造、和田辰次郎)と共に「カキ仲間」を結成しました。 草津のカキ仲間に加わり、大阪堀川でのカキ営業を独占しました(「広島太田川デルタの漁業史 第1輯/川上雅之」より→誤記の可能性あり)。

牡蠣仲間の配分目安表

1863(文久3)年、牡蠣仲間の牡蠣が混合した時の配分の目安の中に「四盃三合 保兵衛(40歳)但シ二口」との記載があります(「尚古」広島尚古会の「草津村蠣仲間(二)/新見吉治(明治40年(1907年))」より)。

牡蠣を内国勧業に出品

1877(明治10)年に「保田安次郎(25歳)」が東京上野公園で開催された内務省主導の博覧会「第一回内国勧業博覧会(8月21日~11月30日)」に仁保島の「かき」を出品しました。仁保村からは海苔、牡蠣、牡蠣灰、綿布を出品しました(「明治十年内国勧業博覧会出品目録」「住屋(世良)二代記 -ふるさと熊野文化財探訪-」より)

江戸後期のかき・のり養殖場

1862(文久2)年に「先・保兵衛(39歳)」「彦兵衛(28歳)」、1875(明治7)年「保田保兵衛(29歳)」が柞木・渕崎のカキ床、ノリ床の漁場所有権、営業権を譲渡しました(「広島太田川デルタの漁業史 第2輯」より)。

養蚕講習会に講習生として参加

1885(明治18)年春蚕期から3年にわたり、淵崎大町の養蚕場にて「養蚕及び製糸の講習会」が開催されました。講師は仙台の「安永総兵衛(後に広島の由良指導員)」、講習生として郡内より青年処女20余名選出されました。「本浦 金井勇次郎」「淵崎 保田松次郎(20歳)」「向洋 大澤卯之吉」「日宇那 山根初之丞」らが参加しました(「仁保村志」より)。

初代漁業組合長、乾海苔を出品

1897(明治30)年9月1日から同年11月30日まで兵庫県神戸市で「第二回水産博覧会」が開催されました。「保田安次郎(47歳)(淵崎本浦海苔業組合頭取)」は仁保島の「乾海苔」を出品しました(「第二回水産博覧会出品目録. 二」より)。
1902(明治35)年11月26日、渕崎・本浦漁業組合(伏崎)が設立しました。組合員147名で初代組合長は保田安次郎(村役場助役兼務)でした(「太田川デルタの漁業史 第2輯」より)。

助役(副村長)、収入役、村会議員

「保田安次郎(助役(明治20.5.23-42.9.10)、筆生、村会議員(明治25-37年,大正6-10))
「保田平四郎(村会議員(明治22-30年))」
「保田松次郎(村会議員(明治40-大正2年))」
「保田健槌(収入役(大正8.11.4-昭和4.3.31))」として活躍しました(「仁保村志」より)。

日清・北清・日露及び日独戰役 出征

竈神社

日清(1894(明治27)年)・北清(義和団事変:1900年)・日露(1904(明治37)年)及び日独戰役 出征兵士名102名の名前の中に「保田健槌」の名が刻まれています(竈神社の階段の下の「忠魂碑」より)

明治36年のかき・のり養殖場

太田川デルタ漁業史

明治36年に大阪等他県に出荷していた有力者と考えられる人物の一覧に「保田保兵衛(自家かき船営業)」「保田周太郎(殻付きかき生産者)」「保田平四郎(殻付きかき生産者)」がいます。
明治36年に「保田芳太郎」が、かき漁場81.0坪を「島田舜蔵」に譲渡した記録が残っています(「太田川デルタの漁業史 第2,3輯」より)。

繭・海苔を内国勧業博覧会に出品

1890(明治23)年に「保田平四郎」が仁保島の「繭」と「海苔」を第三回内国勧業博覧会(4月1日~7月31日)に出品(「第三回内国勧業博覧会参考品目録参照」より)し、「海苔」で「褒状」を授与しました(「第三回内国勧業博覧会受賞者人名録」より)。

浅野家 家中「桑原家」を支援

家系図

保田松次郎が、広島浅野家 家中「桑原家」を多額の支援した見返りで、多くの掛け軸(真贋不明)を受け取りました。桑原家との関係不明(牡蠣業関連?)。

合併臨時委員

1926(大正15)年10月~昭和2年12月に「保田松次郎(62歳)」が合併臨時委員の一人に推薦され、5回の総会で広島市との合併を審議しました(「仁保村志」より)。

カルフォルニアに永住

渡航記録

1916(大正5)年に「保田平四郎」の息子「保田順造(24歳)」がPenryn, CAに渡米(船名:大洋丸)、1927年に「保田正男(18歳)」が「庭師」として、1937年に「保田勝巳」「保田正巳」らが「学生」としてLos Angeles, CAに渡米(船名:浅間丸)・永住しました(「ロサンゼルス淵崎本浦人會々員名簿」「結婚届」「渡航記録」より)。

カルフォルニア入国・出生

出生記録

1917(大正6)年に「保田松次郎」の息子「保田良吉(29歳)」が教師として米国に入国(船名:天洋丸)しました。その際「保田松次郎」の妻「大力ウメノ」の弟「大力房吉」の食品雑貨店(Penryn, CA)に下宿してました。 1919(大正8)年に米国にて娘が誕生しました(「出生記録」「渡航記録」「米国国勢調査」より)。

  • 保田家(大上屋・麓屋)

    • 初代嫡男:麓屋良左衛門(1XXX - 1XXX)
    • 二代嫡男:麓屋保吉(1720 - 1797)
    • 三代嫡男:麓屋多四郎(1791 - 1865)
    • 四代嫡男:大上屋保兵衛(1822 - 1864)
    • 四代次男:麓屋太平次(1XXX - 1859)
    • 四代三男:保田彦兵衛(1834 - 1918)
    • 五代嫡男:保田保兵衛(1846 - 1916)

  • 保田家(大上屋・麓屋)

    • 五代次男:保田澤太郎(1848 - 1849)
    • 五代三男:保田澤太郎(1850 - XXXX)
    • 五代四男:保田安次郎(1852 - 1937)
    • 五代五男:保田善一(1855 - 1924)
    • 五代六男:保田房吉(1858 - 1874)
    • 五代七男:保田友吉(1865 - 1890)
    • 五代長女:大力玉余(1843 - 1870)

  • 保田家(大上屋・麓屋)

    • 五代次女:キクノ(1856 - 1857)
    • 五代三女:木村コト(1860 - 1897)
    • 分家五代:保田彌四郎(1XXX - 1887)
    • 分家六代:保田平四郎(1XXX - 1905)
    • 分家六代次男:保田松次郎(1864 - 1949)

  • 家紋、菩提寺、屋号

    • 家紋:丸に五瓜に唐花
    • 菩提寺:浄土真宗本願寺派 西福寺
    • 屋号:大上屋(おうがみや) 、麓屋(ふもとや)
    • 生業:牡蠣・海苔養殖業、繭業
    • 勲位:
      • 勲六等:保田啓造 陸軍歩兵少佐正六位
      • 勲八等:保田安次郎

  • 保田保兵衛の遺言(芳太郎 記載?)

    • 保田保兵衛よりの遺言によれば
    • 麓屋保吉の父は、安芸国 下黒瀬の村役人(庄屋)を
    • 勤めて居りし麓屋良左衛門の一子にて 少年の頃 母に
    • 死別し断母の手に育てられしが不遇の身なりし故 一時広島
    • に出て 更に柞木上條に来り農業を営みんとの事なり
    • 尚 保吉の妻は船越村の橋田屋より嫁したる者なり
    • 橋田屋とは保兵衛幼少の頃迄交際し続け居りし由なり
    • 麓屋良左衛門には小供なく家は絶へたる由なり

  • 一族発祥の地(推測)

    • 1) 1600年以前に存在した保田村(やすだ)の豪族だった
      • 東広島市黒瀬町国近にて、1600年以前は保田村(安田村:やすだむら)が存在した
    • 2) 江戸初期に保田(房田:ぼうだ)一族から分家した
      • 東広島市黒瀬町飯田にて、1532年~1554年に恵比弥城 (海老根:えびね)があり保田(房田)万五郎が城主(毛利氏に破れ1554年に帰農)
      • 房田万五郎-房田杢之進宗友(養子)-?-房田要兵衛(庄屋同格社倉頭役)
    • ※ 先祖姓が「保田」の証拠なし、房田氏・保田村と関連証拠なし

「仁保島村」の歴史・特色

仁保嶋(香島・鳰嶋・邇保嶋)の歴史

縄文・弥生時代は、広島湾の水位は高く太田川デルタは存在せず、「邇保嶋(仁保嶋)」「ニの嶋」「金輪島」「牛奈島」などの小島が存在するだけでした。 仁保島には大和時代(390年)より人が住み始め、丹生(にう)と呼ばれる日本で有数の朱砂採掘地として大きな役割を担っていました。
西の「安芸の宮島」、東の「仁保島」として近くを通る船を楽しませていたとされ、平安時代前期の公卿・小野篁(参議篁)(802-851年)の歌「入海の 二十浦かけて 十島なる 中に香深き 島は七浦」が残ってます。 「七浦」とは漁業拠点である「柞木(ほうそぎ)浦」「淵崎(渕崎:ふちざき)浦」「日宇那(ひうな)浦」「丹那(たんな)浦」「大河(おおこう)浦」「本浦(ほんうら)」に加え、向洋島の「向灘(むかいなだ)浦」を意味します。
仁保島の主要産業は漁業であることから、民衆は一戸に一艘以上の船をもっており水軍や水夫として戦うことができました。このため諸豪族達による水軍として島民の争奪戦が繰り広げられました。その後、安芸国守護であった「安芸武田氏」のもとで水先案内人を勤め海賊衆(警備衆)と呼ばれました。 江戸期の初め「似島(にのしま)」「金輪島(かなわじま)」「峠島」「大珈玖摩(かくま)島(弁天島)」「小珈玖摩島(小弁天島)」「安堂島」「宇品島」を編入し「安南郡仁保島村」が発足し「日本で最大の村」となりました。
1662(寛文2)年、比治山から仁保島の大河浦にかけて築堤がなされ、翌1663(寛文3)年には「仁保島西新開」「仁保島東新開」が造成され、仁保島は比治山など広島城下と地続きになりました。1664年、仁保島村の住所は「安南郡」から「安芸郡」に変更されました。
地続きとなってから民衆の生活は漁業と山畑農耕の「半農・半漁」の様式に変わりました。また魚場が限られた住民は、1885年~1924年頃に新地を求めて北海道、ハワイ、カルフォルニア、ブラジルに多数が移住しました(最初の渡航者は1868(明治元)年5月153人。移民の96%は広島県(38.2%)・山口県・熊本県・福岡県の出身者で、ハワイ移住者は仁保村民だけで997名いました)。
大正6年(1917年)8月31日に「安芸郡仁保島村」から「安芸郡仁保村」に改称し、昭和4年(1929年)4月1日に「仁保村」は「広島市」に編入され「広島市仁保町」となりました。

【仁保村内の大字・小字】

地名字名
本浦ほんうら東山・宮の脇・岡サミ・十軒屋・古城濱こじょうはま・西一の割・大迫・杉山
淵崎ふちざき大町・地方・伏螭
柞木ほうそぎ柞木・露霞渡ろかど・単田
日宇那ひうな東條・空條・西條・浜・新築地・楠那くすな・東山
丹那たんな朝見原・東山・菖蒲崎しょうぶざき・新地濱・西山
大河おおこう三軒屋・五軒屋・十軒屋・香護山・オドロ・本町・山根・平岩・新築地・朝見原・山城屋・大下・浜町
向洋むかいなだ露霞渡ろかど・青崎・妙見みょうけん櫨山はぜやま・高山・洋・大森・大原・山の神・月見
堀越ほりこし堀越・阿弥陀・延命
似島にのしま似島・大カクマ島・小カクマ島・峠島

仁保島村の名産品・建造物・特色

牡蠣・カキ船

仁保 牡蠣

1624(寛永元)年、仁保島の淵崎 吉和屋平四郎が「石付法」を開発し牡蠣養殖を始めました。その後「竹付法(ひび建て養殖法)」開発しました。また2代目平四郎は淵崎特有の養殖法である「3年養殖法」を開発しました。1743年にはカキ仲間制度のもと大坂方面におけるカキの販売権を独占的に握り、毎年旧暦10月20日から正月末まで町に架かる橋のたもとに船をつけてカキを販売しました(ただし名称は「草津牡蠣株」とされました)。江戸時代後期(1810年代)になるとカキ船上に座敷を設けてカキ料理も始めました(摂津名所図会大成)。

海苔

仁保 海苔

1658~1660年(万治年間)、仁保島の本浦 長三郎、御茶屋半三郎らが生海苔を加工し「えびら海苔」の製造を始めました。1811年には淵崎 葭屋忠四郎が、江戸浅草海苔の製法を学んで帰国し、えびら海苔を薄く漉く法(抄製法)を完成し、また忠四郎は海苔ヒビを女竹ヒビに改めました。淵崎・本浦と大河では、全世帯が海苔養殖の権利である海苔株を所有してました。明治35年11月26日、渕崎本浦漁業組合が設立しました。 渕崎本浦漁業組合は猿猴川の河口の一帯を養殖場としていましたが、成育期間が短く約4~50日の期間しか海苔が採れないという大きな欠点がありました。そのため1月末~4月一杯は大河や草津から、生海苔を買い入れて生産していました。

綿花・養蚕・蓮根

綿花・養蚕業

1662(寛文2)年、東新開の埋め立てによって米・麦、国策の奨励もあり棉花栽培が盛んになりました(米の2倍の利益がありました)。また明治時代は桑畑や果樹園などが増え養蚕業も盛んになりました。綿花輸入制限撤廃(1896年)の影響で棉花栽培は衰退し、綿畑は蓮根田(稲作より手間が掛からず、収入がよいため)に姿を変えていきました。また野菜や果物の栽培も行われるようになりました。

邇保姫神社

邇保姫神社

西本浦町。885(仁和元)年、丹生都比売(ニウツ姫)を祀った社殿が造営されました。神功皇后が三韓御出兵を終えて(西暦200年頃新羅を平定)畿内に帰るとき、仁保島の入り江に宿陣し、航海の無事安全のお礼として爾保都比売神(ニウツ姫)を祀ったとされています。仁保の獅子舞の始まりの獅子頭が奉納されています(1600年頃、本浦の漁師(白井屋、上野屋、浜井屋)が唐獅子と金仏と牡丹株をシナ海で拾ったとされてます)。

仁保城(廃城)

仁保城

黄金山町。1495(明応4)年、白井光胤が武田氏から警固を命じられており、遅くとも室町時代には築城済でした。のちに大内氏に属しましたが応仁の乱の頃(1470年)より無城主状態続き邇保姫神社が仕切ってました。その後毛利氏の支配下におかれましたが1600年代に関ヶ原により廃城となりました。1555(弘治元)年の厳島合戦の際、陶晴賢が三浦房清を派遣し仁保島の占領を試みましたが城将 香川光景が撃退しました。

土蔵

土蔵

東本浦町。1885(明治18)年、アメリカやブラジルへの出稼ぎ者が増えました。故郷に錦を飾った証明として、風水害などから作物や家財などを守るために白壁の土蔵(2間(約3.6m)x3間(約5.4m)の2階建)が残ってます。かつては160の土蔵が存在してました。出稼ぎ労働として移住した者の中には、帰国を諦めて永住するものもいました。移住者数は日本で仁保村民が最多です。1911年の統計によれば、村民の32.3%が移民しています。

観音寺

観音寺

仁保一丁目。仁保城の城番であった三浦兵庫頭元忠が菩薩寺として建立した寺。 当初の山号は黄金山でしたが慶長年間に梵潮山に改称されました。 元忠が在勤したのは天正19年~慶長元年(1591~1596)の期間であり、この寺の創建は その初期吉田から連れてきた大工衆に当たらせ建築されました。

黄金山

黄金山

仁保一丁目。この山の本来の名称は「城山」。 黄金山という別名の由来は諸説あり、観音寺創建時の山号に黄金山とあることからその頃からの名称とも考えられます。 「山の中で白南天を見つけてその下を掘れば黄金が出る」という黄金埋蔵説など、さまざまな伝説が生まれています。写真は仁保嶋城一の丸磐座いわくら(神様が降地される岩)

竃(かまど)神社

竃神社

仁保一丁目。1722(享保7)年、8月24日に漁民の家内安全や繁栄を祈念して竃神を祀りました。祭神は奥津彦神および奥津姫神で「荒神さん」とも呼ばれます。邇保姫神社の摂社で1808年(文化5年)正殿が再建されました。

西福寺

西福寺

仁保ニ丁目。1501(文亀元)年、浄土真宗本願寺派で本浦に開基した真言宗寺院です。1597(慶長2)年真宗道場として再興しました。現在の本堂・山門・鐘楼は1718(享保3)年に建立されました。伊能忠敬も全国の測量の際に宿泊した記録が残ってます。また赤穂浪士の一人であった武林唯七の祖父治庵の墓が建立されています(公式サイトの再建日は誤り)。

渕崎、本浦漁港

渕崎漁港

仁保ニ丁目。東雲の干拓により人工的に作られた湾が漁業として整備された港湾が渕崎港です。渕崎、本浦地区は、カキとノリの養殖が行われ、その発祥の地といわれています。 第二次世界大戦中に淵崎港の埋め立てが行われ軍用地として整されました。これにより淵崎港は漁港としての機能をほぼ失ってしまいました。

仁保の大銀杏

大銀杏

仁保三丁目。1808(文化5)年、この地を訪れた江戸後期の儒学者、頼山陽(1780-1832)と頼杏坪(1756-1834)がこの大銀杏を詠んだ漢詩を残しています。 渡部家の庭に立つ大銀杏で樹齢は分かっていません。
頼山陽「分流野水状チYチ爲ス 中二漁村有街巷斜ナリ 茅舎荻籬物色シ難シ 一株ノ銀杏是レ君ガ家」(仁保村志 p140)

侍石(さむらいいわ)跡

侍石

仁保四丁目。現在の東洋大橋上流の狭い字を露霞渡ろかどと呼び、昔は岩場の海辺で小赤壁という別称もありました。絶好の月見場所だったため藩の侍たちが訪れて観月を楽しみ、その中の大岩を特に「侍石」と呼びました。「岩鼻やここにも一人月の客」の句が残ってます。

住吉神社

住吉神社

仁保四丁目。昔、このあたりに毎夜怪物が出て人々に妨害したので人々は社を建て、1793(寛政5)年9月10日、住吉の神を勧請しました。それ以来ここに怪物は出なくなって、以後人々は大変喜び敬まったといいます。

ちゃちゃぼこちゃん(七夕祭)

ちゃちゃぼこちゃん

仁保ニ丁目。八九寸の竹に五色の短冊(昭和初期には赤紙のみ)を幾千万と結びつけます。机の上には果物や野菜を供え、数日後にそれらを飾り船に移します。そして、笛や太鼓、法螺貝などの楽器で賑やかに祭り、内潟を一巡した後に供え物を海に流しました。

仁保島とカキ・ノリ養殖の歴史年表

  • 200年(仲哀天皇9年)
    神功皇后三韓より凱旋の途中、本浦皇后山に御駐輩(邇保姫神社)
    339年(仁徳天皇27年)
    邇保姫神社鎮座(仁保嶋城(1986) p.10)
    390年(仁徳天皇78年)
    仁保島に人が住み始め漁業と山畑農耕に励む(仁保嶋城(1986) p.7)
    392年(仁徳天皇80年)
    邇保姫神社創祀(邇保姫神社)
    729年~749年(天平年間)
    【江波】奈良朝廷の役人 貞親君が名原島(江波島)を訪れた際、住民が牡蠣を贈った(太田川デルタの漁業史(1979))
    885年(元慶9年)
    邇保姫神社の社殿を改造して、宇佐八幡宮を勧請、正八幡宮と称す(仁保嶋城(1986) p.7)
  • 1105年(長治2年)
    【江波】傅説によれば凶作により地切島(江波島)の住民は飢饉で近くの貝を食べ尽くした。島民 西 清八が窮民に麦三石を与え、他国より種貝を求めて増殖を計った(1925年 広島市史 第4巻)
    1120年(元永3年)
    古文書に仁保島は邇保島と記してある
    1288年(正応元年)
    邇保姫神社三浦兵庫頭から社領三十石附される(仁保嶋城(1986) p.10)
    1468年(応仁2年)
    大河城主三浦兵庫頭の弟専祐本浦に西福寺(禅宗)を建立
  • 1510年(永正7年)
    西福寺の二代目慶祐、本浦より大河に移り改宗して真宗となる
    1522年(大永2年)
    大内水軍多賀谷武重、仁保島を攻撃する
    1532年~1555年(天文年間)
    【安芸】安芸国において養殖の法を発明せり(草津案内、大正13年発行)
    1555年(弘治元年)
    陶晴賢の武将三浦越中守房清が、精鋭700あまりを軍艦15艘に乗せて仁保嶋城に押し寄せ、楠那に上陸した
    1574年(天正2年)
    仁保島に疫病流行、疫病退治の心願を込めて邇保姫神社の境内に氏室神社を勧誘する
    1591年(天正19年)
    毛利氏重心三浦兵庫頭元忠(神田総四郎)仁保島城の城番となる
    1597年(慶長2年)
    北小路中納言輔道郷の次男法名玄清は仁保島山山麓に廃寺(西福寺)があると知り、これを開き真言宗に帰依し渕崎に移る
  • 1615年(元和元年)
    仁保島の石高を364石6斗と定める
    1619年(元和5年)
    【広島】8月8日、福島正則にかわって浅野長晟が転封。和歌山(紀州かき)を広島の干潟に移入した(自得公済美録)
    1620年(元和年代)
    仁保島と岩鼻、向洋の丘陵地の間には相当深く入江があった。この入海に日宇那の者が鯛網を出した(古老伝承)
    1627年(寛永4年)
    【矢野】和泉源蔵(源三)が大江灘(矢野大井)に住み着き、雑木を立てて養殖を試み、さらに竹を立てて完全に成功し、それ以後盛んとなる(矢野町史(1958))
    1624年~1644年(寛永元年)
    【仁保】渕崎の吉和屋平四郎が、渕崎海岸の岩石に牡蠣自育するを見て、小石を海底にしずめ置き牡蠣の生育するを得、その後目標のため竹木を建て置きたるに附着せるは一層良好なるを発見し「石付法」を廃し竹付法に改めたり(仁保村志(1929))
    1624年~1650年(戦国末江戸初期)
    【矢野】山岡某という人が、牡蠣の密着したヤマツゲの木を見て始めた(矢野町史(1958))
    1659年(万治2年)
    【海田】養殖場を村役場より戸毎に分当し、一戸に二間口を配当し営業(明治19年慣行届)
    1659年(万治2年)
    仁保島東新開、西新開の干拓工事が始まる
    1660年(万治3年)
    安芸郡仁保島字本浦の住民、長三郎、御茶屋半三郎なる者、生海苔を加工し「えびら海苔」の製造を行い藩主に献上した(広島市史)
    1662年(寛文2年)
    仁保島の西及び東新開が着手され、段原の桃木、榎木、竹屋沖、大黒新開が整理された(仁保島と広島城下町とが初めて陸続きとなった)(玄徳公済美録)
    1662年(寛文2年)
    西新開の地中に往々篊株(ひび株)の存せることありという、これより干拓以前に八重篊(ひび)のありし明らかなり(勧業雑報)
    1663年(寛文3年)
    【草津・海田】牡蠣、安芸郡海田にあり色は白く、味は甘い。佐伯郡草津海に干潟がある(芸備国郡志(1663))
    1663年(寛文3年)
    12月、伊予(愛媛県)松山藩の城主、松平定行は安芸国広島より牡蠣70俵(草津20俵、仁保島50俵)を購入し、領内の浦々に移す(大日本農史巻上(212頁))(伊豫本藩譜)
    1671年(寛文14年)
    仁保島東新開、西新開の地詰を行う(東雲12町歩、皆実144町歩)
    1673~1681年(延宝年間)
    【草津】仁保島の牡蠣養殖に刺激され、漁師の小西屋五郎八(本名:小林五郎左衛門)が竹枝に附着した牡蠣の成育状況の速い事を発見し、ひび建法で1年生かき採苗法を考え出した(成跡書)
    1673~1681年(延宝年間)
    【草津】小西屋五郎八を中心とする、万屋武兵衛、大野屋来三郎(島本家の祖)、胡子屋孫兵衛(佐久間海産の祖)、小島屋政右兵衛らのカキ師が販路を広島に近い港々から、遂には大阪に開く(成跡書)
    1680年(延宝8年)
    御茶屋半三郎が浅草のり製法を学び帰る(仁保村志(1929))
    1688年(元禄元年)
    【草津】河面仁右衛門(横吹山城主 河面三河守菅原義国の子孫)、万屋武兵衛、大野屋来三郎、胡子屋孫兵衛、木屋周蔵(島田水産の祖)、小島屋政左兵衛らが、かき株仲間組織を結成(太田川デルタの漁業史)
  • 1700年(元禄13年) 7月
    【草津】庄屋河面仁右衛門(こうもにえもん)が三次藩に鰯網と牡蠣船の両立を嘆願し、草津牡蠣株仲間が成立。18組(年間1貫目の運上銀)の大阪への輸送・販売の許可を得る(小川家文書(1819)「養蠣由来書」)
    1701年(元禄14年) 10月
    【草津】三次藩、草津牡蠣株仲間大坂商事に関する条目を定める(小川家文書(1819)「養蠣由来書」)
    1702年(元禄15年)
    【広島】広島湾沿岸で綿作が盛んに行われるようになる
    1707年(宝永4年) 12月29日
    【草津】大阪大火の時、高麗橋西詰にあった高札(こうさつ)を小西屋五郎右衛門のかき船が積み込み火災の難をまぬかれた功績により、大阪表堀川筋一円の牡蠣船独占営業を許される(小川家文書(1819)「草津村牡蠣商売由来」)
    1711年~1716年(正徳年間)
    仁保島のカキ営業者が草津村と別に大阪へのカキの販売進出する(小川家文書(1819))
    1717年(享保2年)
    幕府の巡見視に書き出した、広島藩領分の名物として海田牡蠣、仁保島海苔が記される(広島藩覚書)
    1717年(享保2年)
    2月23日、草津村牡蠣屋連中と本浦渕崎の庄屋半兵衛組頭九兵衛、同じく善四郎が、大久保大隅守より釣灯一対を頂く(草津八幡神社の法納記)
    1721年頃(享保6年)
    仁保島のかき船による大阪堀越での営業が年々増加する(太田川デルタの漁業史(1979))
    1716年~1736年(享保年間)
    【海田】海田市、養殖場は譲与或は売買することになり、証書へ村役所奥書調印する(19年慣行届)
    1716年~1736年(享保年間)
    【矢野】村内3~4名の者区画を定むるなく牡蠣の附き易き場所を適撰しひびを設け採蠣す(19年慣行届)
    1716年~1736年(享保年間)
    【矢野】先年御船手支配之持御船奉行植木小右衛門様より御免を蒙り享保之頃よりひび差来り候義と申伝候尤其節御分被下候人別は四拾弐人之由承伝候(矢野村 書出帖)
    1716年~1736年(享保年間)
    仁保島大河浦の西国元右衛門なる者、浅野藩士に従い江戸に行きし時、浅草海苔の採取法を学び帰国後、ひびの建て方など実施に試み、雌竹を以てせしに海苔の生育良好なるを以て専ら竹を使用するに至れり(大河十軒屋誌)
    1735年(享保20年) 5月
    広島藩、草津牡蠣株仲間の定法を改める(小川家文書(1819))
    1741年~1744年(寛保年間)
    仁保島村かき船が、4人乗り14隻となり次第に草津村カキ株仲間の営業を脅かすようになった
    1743年(寛保3年)
    仁保島の14艘のかき師で「カキ株仲間」成立し草津の仲間株と分離。向洋9艘(原敬三、丹羽格太郎(2艘)、岡田藤右衛門(2艘)、岡田孫三郎、大下雄三、山代吉右衛門、土手秀助)、渕崎本浦5艘(金井半三郎(吉田屋)、奥村忠次郎(奥屋)、大浜来造、和田辰次郎、保田保兵衛(大上屋))(太田川デルタの漁業史I→誤記の可能性あり)
    1743年(寛保3年)
    【草津】草津牡蠣株仲間21株(松屋六右衛門、万屋八右衛門、なべ屋勘兵衛、三島屋次右衛門、車屋徳兵衛、木屋清七、阿賀屋八右衛門、山口屋孫八、山口屋久右衛門、山口屋七右衛門、山口屋善兵衛、小西屋五郎兵衛、松本屋八郎左衛門、大野屋長兵衛、小島屋六兵衛、胡屋孫七、胡屋七兵衛、朝倉屋与兵衛、朝倉屋市郎右衛門、播摩屋小次郎、宮島屋長左衛門)(太田川デルタの漁業史II)
    1743年(寛保3年)
    広島藩、佐伯郡草津村と安芸郡仁保島の牡蠣船の競合に対し、仁保島の牡蠣株舟数を3人乗14艘と定める(小川家文書(1819))
    1746年(延享3年) 11月
    広島藩,安芸郡仁保島・船越・海田・矢野・坂村無株者の大坂近傍への牡蠣積み登せを禁止する(小川家文書(1819))
    1745年(延享2年)
    仁保島藻崎の養殖は庄屋金井半三郎より金兵衛外拾7名へ流失となる(明治19年慣行届)
    1753年(宝暦3年)
    【江波】江波村の柳屋二代目又吉なるもの江波山に登り、海苔の養殖場を眺めて大いに感ずる所あり「えびら海苔」の製造を試みたる(広島市史)
    1755年(宝暦5年)
    仁保島の延縄漁師が、江波島の西潟で餌手堀をしていたが江波の者が差し止めた。江波島、仁保島村潟境争い裁許状に魚ひび建のことを記す(江波漁協文書)
    1758年(宝暦8年)
    【江波】江波村の人柳屋又七なるもの石を海中に配置して海苔を養育せしに十分なれば、石をやめて小柴を立てしに好結果を得たり。ある年偶然にも小柴の中に小竹三四本混ざれるものに長さ三尺から四尺黒髪の如き海苔付着せしを発見せり、是より柴を廃して竹を持ちうるに至れるなり(大河十軒屋誌)
    1760年(宝暦10年)
    仁保島の漁師が手掘りばかりでなく、鍬、ジョレンなども使用して宝暦5年の策定を乱したと、江田島から藩府へ歎願書を出す(太田川デルタの漁業史)
    1762年(宝暦12年) 3月
    草津牡蠣仲間定法を改める(養蠣由来書)
    1767年(明和4年)
    丹那村で村をあげてカキ養殖を始める
    1767年(明和4年)
    丹那浦の中屋伊平が牡蠣ひびを試み好結果あり、中屋伊平外108名許可を得て営業(26年漁業制度取調書)
    1767年(明和4年)
    安芸郡海田市・矢野村などの牡蠣屋ら、京都・堺などに牡蠣を売り込み、広島牡蠣仲間に制止される
    1776年(安永6年)
    仁保島と船越村との潟境について論争が起きる。磯稼ぎの力関係で自然的に解決(太田川デルタの漁業史(1979))
    1781年(天明元年)
    【坂村】木村伊豫屋利助の発見に係り小石を集め蠣を養殖せしか天明4年の頃よりひびを立てて養殖することになり(明治19年慣行届)
    1783年(天明3年)
    日宇那浦、吉野屋惣五郎等、牡蠣及貝類の養殖を創業(明治19年慣行届)
    1787年(天明7年)
    日宇那浦、山本屋清二郎牡蠣ひび立の方法及び貝類養殖の工夫をなし盛大となり各自区画専用を始める(明治19年慣行届)
  • 1805年(文化2年)
    日宇那浦、大風雨により養殖場損害を受け中断する(明治19年慣行届)
    1811年(文化8年)
    渕崎の葭屋忠四郎が江戸浅草海苔の製法を学んで抄製法(漉海苔)を完成(仁保村志(1929))
    1813年(文化10年)
    渕崎・本浦におけるカキ養殖業者21名のうち、自家カキ船営業をしているのは5人(残りは販売業)
    1814年(文化11年)
    仁保島丹那浦地先ひび場免許図に八重ひび12を記入し9つに氏名、番号を入れる(丹那漁協文書)
    1816年(文化13年)
    仁保島丹那浦の中屋伊兵衛が和歌浦の太郎右衛門と結託して「和歌浦名産牡蠣」の商標で密売する(小川家文書(1819))
    1804~1818年(文化年間)
    【草津】船の中で牡蠣飯を炊きて客に食わせるようにした。三島屋勝太郎というものが開祖である(草津村蠣仲間(二))
    1821年(文政4年)
    江波方が海苔ヒビ建場の拡大を藩府へ願い出に対し、仁保島、特に大河方より三代十郎兵衛が藩主より貰ったお墨書を建てに強談判となる。太河の大阪屋庄助、大野屋市三郎、鰯屋半兵衛は獄に繋がれ100日と30日の入牢となる(太田川デルタの漁業史)
    1825年(文政8年)
    草津村と仁保島との仁保島藻崎牡蠣活場所有権争い終る、仁保島当分庄屋(原田十兵衛)、庄屋(量平)、淵崎浦組頭(半助)、長百姓総代(新八、清七)、蛎師範代(平四郎(大浜)、七蔵(野島)、次右衛門(池田))(小川家文書(1819))
    1830年(文政13年)
    本浦の中古屋林蔵が京都にカキを直送してカキ店を開く、牡蠣の過剰生産が浮び出る(小川家文書(1819))
    1843年(天保14年)
    【厳島】厳島、浜役所にて試みに牡蠣を育養(19年慣行届)
    1843年(天保14年)
    観音沖干潟で、新開組と仁保島漁民との潟争い(太田川デルタの漁業史(1979))
    1853年(嘉永6年)
    11月時点の仁保島14株主は本浦(吉田屋半三郎(金井家)、奥屋太右衛門、鍵屋元蔵、古城屋利右衛門、奥屋吉右衛門(奥村家))、渕崎(大嶋屋平兵衛、福島屋為吉、築島屋惣助、奥屋万太郎、中嶋屋甚兵衛、大谷屋治兵衛、森本屋万吉、袴屋直蔵、吉和屋平四郎)(大阪北堀江宮川町「銀主 大和屋 安次郎」宛手紙)
    1860(文久元年)
    【廿日市町】山代政次、三輪彌助の発起にて本業を越し海面拝借許可を得た(明治19年慣行届)
    1869年(明治2年)
    牡蠣仲間連名にて大阪市中の川中拝借願を出す。草津21名、仁保8名の営業場所、氏名を記す(小川家文書(1819))
    1871年(明治4年)
    廃藩置県、広島藩が広島県になる
    1873年(明治6年)
    草津沖、江波村西潟、仁保島淵崎、向灘、本浦、坂村沖、牡蠣ひび場を改めて免許(廣島牡蠣養殖場ニ関スル取調書)
    1877年(明治10年)
    上野の第一回内国勧業博覧会に仁保島から海苔・牡蠣(保田安次郎)・牡蠣灰・綿布を出品
    1877年(明治10年)
    淵崎郵便局(字柞木809番地)1月16日に開設
    1878年(明治11年)
    仁保島藻崎11町6反20歩を池田治右衛門 外530名に免許(取調書)
    1878年(明治11年)
    草津村カキ造稼人、仁保島渕崎へ入作を願い出るが、明治14年に至るも果せず(取調書)
    1880年(明治13年)
    日宇那浦、小堀辰二郎が養殖場を再興する(明治19年慣行届)
    1880年(明治13年)
    535人の牡蠣養殖業者が「海面拝借願い」を広島県に提出
    1881年(明治14年)
    仁保島藻崎蠣ひび場6町5畝20歩510名に免許(取調書)
    1881年(明治14年)
    牡蠣船数、草津村22、渕崎浦7(保田保兵衛、池田治右衛門、大浜来造ら)、本浦4(金井半右衛門、奥村忠次郎)、向灘浦3、海田市5、矢野30、坂村7、計78(太田川デルタの漁業史(1979))
    1883年(明治16年)
    牡蠣船数、草津村22、渕崎浦6、本浦4、向灘浦2、海田市5、矢野30、坂村7、計77(勧業雑報)
    1889年(明治22年)
    仁保島および向洋の集落は町村制により「安芸郡仁保島村」となる
    1890年(明治23年)
    第三回内国勧業博覧会に仁保島から繭(保田平四郎ら)・牡蠣缶詰・海苔(保田平四郎ら)を出品
    1897年(明治30年)
    神戸市の第二回水産博覧会に仁保島から乾牡蠣・牡蠣佃煮・牡蠣缶詰・乾海苔(保田安次郎ら)を出品
  • 1911年(明治44年)
    淵崎地区からの海外移民は728人(576人がハワイへの移民)
    1917年(大正6年)
    安芸郡仁保島村を安芸郡仁保村と改める
    1919年(大正8年)
    各地で米騒動が起こる。仁保村でも村民が集合し不穏な動きがあったが騒動には至らず
    1929年(昭和4年)
    仁保村を広島市に合併、広島市仁保町になる
    仁保村役場が「仁保村志」を発行する

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Chiba-shi, Inage-ku, Chiba

Japan

Author

10代 分家

保田

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家の血筋の続きがらを伝える手がかりを失うことは いかに悔しいことだろう。ありのままを書き残し 我が子どもたちに長く傳えたい(中川翔子氏の高祖父 伊藤一隆氏より)。